2020-08-09

【週俳7月の俳句を読む】作品が何を読者に要求しているのか 谷口慎也

【週俳7月の俳句を読む】
作品が何を読者に要求しているのか

谷口慎也


私のまだよく知らない書き手たちの10句を対象としての作品鑑賞は、しょせん印象評価に終るのかもしれない。だが、作品が何を読者に要求しているのかという「読みのcode」(道筋)に留意していくならば、多少はその難を解消できるのではないか――と思いつつの鑑賞文である。

村上 瑛「森に」

返球は転がしてやる朝曇

大学は森にうずもれ夕立風

夏痩や手でつくる銃向けられて

俳句は詰まるところ言語表現であるが、この3句には、作者がそれ以前の日常の場において、すなわちその散文的な地平において、外界との鬱屈とした軋轢を抱え込んでいることが見て取れる。

1句目。〈返球〉を〈転がしてやる〉のは、相手が子供であれば、それは句中の主体の優しさともなり得るが、何せ結句は〈朝曇〉である。であれば、その〈返球〉にはある種のアンニュイ感が伴っていることに留意したい。すなわちここに、幽かながらも、「自己」と「外界」との関係性のひとつが浮かび上がってくる。

2句目。〈大学も葵祭のきのふけふ〉(田中裕明)という句がある。ここに鮮烈な抒情や青春性を見るのは容易い。だが〈大学〉という社会的地位も、〈葵祭〉という地域ブランドも、1句の中では既存の価値観のままに据え置かれ、そこに〈きのふけふ〉という時間が流し込まれている―これは俳句の常套手段であるが―なるほど、ここにはうっとりとする時間が流れている。だが私の鑑賞はそれ以上の世界へ出て行かない。

対して村上作品の〈大学〉は、鬱蒼とした森に〈うずもれ〉ているところから出発している。暗くて黴臭いその在り処。そこへ〈夕立風〉が登場する。雷を伴う激しい雨。すべてを洗い流したその後には、涼しい風が吹く。ここには、表現による静かな復活(再生)劇を見ることができる。

3句目。〈手でつくる銃〉であれば、それは指で形作った〈銃〉のこと。親とヤンチャな子供とのある日ある時の、平凡なスナップ・ショットであるが、この句も簡単には見過ごせない。        

〈夏痩〉という弱った身体=弱者に向けられているのは〈銃〉である、というこの句の構図は、頑として動かない。その〈手でつくる銃〉が一瞬ヒヤリとしたものに変容するのは、作者がそこに、日常の裂け目(スリット)から見えてくる違和を直観しているからに他ならない。

以上3句からも了解されるように、散文的地平での違和は、この形式の中で解消されるのではなく、隠された静かな軋みを保ちながら書かれていることがわかる。そして多分ここには、書くための忍耐力が要るのだ。

蠅叩放れば終わる旅支度

教室でメロスの激怒夏に入る

湯にレンジに夕餉任せる油蟬

1句目には当然、虚子の「蝿叩」の連作が頭にあったに違いない。それを「放り出す」ことによって〈旅支度〉が「終わる」のである。ここには俳句独特の「ひねり」がある。すなわち〈旅支度〉の「終り」は「旅の始め」である。その為には〈蝿叩〉に象徴されるもろもろを放り出さねば旅は始まらないのだ、という「ひねり」である。

2句目。〈メロスの激怒〉を理屈で考える必要はない。〈教室〉という檻の中で唐突に、また確たる理由もなく暴発するパッション。それがそのまま〈夏〉に突入する感情の激しい流れとして表出されている。言葉によって、外界の抑圧を一挙に突き抜けているがゆえに貴重な一句となっている。

3句目は何度読んでも面白い。何よりも〈任せる〉の措辞による〈油蝉〉の「お大尽ぶり」が俳諧であり、愉快でもある。それを支えるのが読みにスピード感を持たせている〈に〉の繰り返し。他に〈羽蟻来てレゴのすかすか観覧車〉〈冷やし中華電源コードに頭と尾〉があるが、全体この作者には、現代的な感覚による「俳味」の面白さを言ってみたい。


橋本 直「不自然」

一家皆公務員なり通し鴨

不自然な川不自然な小鬼百合

人間の形の虚無をあぶらむし

1句目は特に面白い作品だ。〈一家皆公務員なり〉とは生活の安定を示す言葉。その数が増えれば増えるほど、それは「食」の安定に比例する。だが、結句は〈通し鴨〉である。夏になっても北へ帰らず、そこに居残り雛を育てる一群。いわばそれは渡り鳥の習性に逆らう少数派である。ゆえにここに寓意が成立する。「食」の安定のために、何かを喪失する淋しさ―である。

だがこの1句は、〈通し鴨〉の一語によって、さらなる読みをその外縁に誘発して来る。読みは読者の自由である。「読みのcode」をフル活用し、それを手繰ってみると、以下のようになる。

〈通し〉という言葉は料理店における「お通し」を連想させる。と同時に、〈一家皆公務員〉の「食」は、贅沢な「鴨料理」に結びつく。ここにおいて〈通し鴨〉という季語の本意は解体され、句中の主体は、まさに今、〈通し鴨〉という料理を取り囲んでいるかのようにも思えてくる。贅沢の中に、何かが欠落したような思いを抱きながら―である。そういう読みの面白さを味わえるのである。

2句目。ここには当然、「一月の川一月の谷の中」(飯田龍太)が意識されている。この句には、例えば丸谷才一に代表されるような優れた解釈もあるが、そこに私の興味・関心はない。

ずっと昔、私がこの1句に驚いたのは他でもない。「一月の谷の中を一月の川が流れている」という普遍的な風景が、まさに俳句形式そのものの力学(構造)によってみごとに俳句として成立しているという、その一点においてであった。そしてここには、龍太が俳句形式に関わるその根拠の一切が見当たらない。形式だけで成り立っているこの一句に、私は定型詩における「虚無」の怖さに驚いたようである。

橋本句の〈不自然な川〉には、龍太句に対する叛意のようなものを感じる。〈不自然な川〉によって変容された〈不自然な小鬼百合〉は、その〈不自然〉という言葉の繰り返しによって、より人間的な「自然さ」を希求しているかのようである。

3句目。ここにも〈虚無〉という言葉がある。それは〈人間の形〉をした〈虚無〉である。〈かたち〉とは「型」(形式)のことであれば、2句目の評とつながってくるが、その〈虚無〉は〈あぶらむし〉の登場によって人間の生活の現場と繋がってくる。要するにここに、叛意を通して、肉体を伴った俳句形式が成立するのである。

みておれば蚯蚓になにかみえてゐる

ささやかな独裁起こすかき氷

裸子の背にすんなりと手のとどく

これらの句も面白い。

1句目。何が見えてくるのかは書かれていない。だが作者には何かが〈みえてゐる〉のである。これは読み手に対するある種の挑発である。私には見えるが、あなたには見えないのか。たかだか相手は〈蚯蚓〉でではないか。もっと想像力を働かせなさい、とでも言いたげな。そういえば渡邊白泉に〈鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ〉があった。

2句目。何と言っても、和平的な〈かき氷〉に〈独裁〉を持ってきたところに、この作者の発想の大胆さ、自由さを感じた。〈かき氷〉に向かう姿は、それが大人であれ子どもであれ、独裁者であるという誇張表現の面白さ。それはまた俳句独特の手法でもある。
3句目。〈裸子〉の骨や筋肉の柔軟性には私もときどき驚かされる。それを〈背にすんなりと手のとどく〉と表現したとき、その〈手〉はそれ自体がまるで伸縮自在の生き物のように思えてくる。その〈裸子〉の自然な姿が不自然に見える瞬間。

この作者もまた、「自己」と「外界」との微妙な「ズレ」を抱え込んでいるようだ。


太田うさぎ「息災」

この人の作品は、境遇・境涯俳句にほど遠く、言葉が形成する世界そのものの面白さを楽しむことができる。

てつぺんかけたか義経は息災か

先ずはこの1句が目に飛び込んできた。

句の内容は古の歴史的人物に向けられた「存問」である。それが〈てつぺんかけたか〉の語勢に始まるリズムとテンポのよろしさで書き抜かれている。そこに詩的快感を覚える。こういう句はあまり説明を加えない方がいいが、そういうわけにもいかないので、一応の説明をする。

〈てつぺんかけたか〉とはホトトギスの鳴き声。そして〈てつぺん〉は「天辺」に通じる。義経もその高みにいたが、やがては兄に殺された。貴種流離譚の典型である。まさに「天辺駆けた」が、「啼いて血を吐くホトトギス」で終わったのである。そういう寓意がこの句にはある。そこに日本人好みの「判官びいき」が加勢する。

では、この〈てつぺんかけたか〉は「時鳥」の本意を解体し、単なる句中の詩語として扱われているかと言えば、そうではない。何故ならこの句は、その啼き声によってこそ〈義経〉が蘇るという、表現上の仕掛けの上に成立しているからである。。

屈みゐし人のつと立つ渓蓀かな

作者はいつか何処かで、たまたまこういう風景を見たのであろう。句意は、〈渓蓀〉の前で屈んでいる人が立ち上がった、というだけのことである。では何故、それだけのことが俳句になっているのか。

それには先ず〈渓蓀〉という一般には馴染みの薄い漢語に目を留めなければならない。読みは「あやめ」である。「あやめ」は「菖蒲」とも書き、またそれを「しょうぶ」とも読むから、ここにいささかの混乱が生じるが、「あやめ」は乾いた畠などにあるもの。「しょうぶ」はその根茎を水底におとしているものである。そして〈渓蓀〉を決して「しょうぶ」とは読まない。従って〈渓蓀〉という表記は、作者が慎重に抽出した一語であることがわかる。次に目を留めるべきは、「あやめ」=〈渓蓀〉は、根に毒を持つものであり、そのすべての部分に毒素を持つものとされているということ。

そういうことを頭に入れてこの句に向かうと、〈つと立つ〉の〈つと〉が読みの発端となっていることがわかる。そして、その不意に立ち上がる行為の原因となっているのが〈渓蓀〉であることが1句に明示されている。すなわちこれは、日常生活の中における「毒素」の発見である。

いま私は表現上の問題を言っているのであるが、例えばここに、〈渓蓀〉の代わりに「菖蒲」や「あやめ」という文字を置いてみればいい。たちまちこの句は平凡なものになってくる。何故ならどう見てもそれらの言葉では「毒」が効かないからだ。勿論ここで言う「毒」や「毒素」は、すでに具体的な〈渓蓀〉の「毒」を越えたところのものになっている。それから後は読者の問題だ。単一ならざる「読み」の多義性を要求して来るがゆえに、これは俳句という韻文なのだ。

寝室や冷房が効き絵傾き

この句の風景も不思議である。

単純なる室内風景に混じる「キ音」の連続が気になる。すなわち違和を感じる。そのためか、よく冷えた〈冷房〉は効き過ぎなのではないかと勘ぐったりする(実際、そのために心臓麻痺で亡くなった人もいる)。また壁に掛けた〈絵〉が不自然に傾いているのも気になる。それもいつ落下するかもしれないという不安。あるいは何かの予感。

単純なる室内風景の写生が、表現上の音と視覚とによって、どこかに違和のある風景に変容されているのがこの1句である。すなわちこれは、作者のある時の視覚的映像が、言葉による心象風景として、作者の中に明確に成立しているのである。

あらゆる表現者は、それぞれの「心象(風景)」によって、現実の中の「私」の位置・位相を確認することを思えば、この一句の意義も了解される筈である。。

紫陽花やうらぶれつつも文具店

大手商業施設に飲み込まれてしまったかつての〈文具店〉は、もはや「郷愁」の対象である。頭に〈紫陽花〉を置いたことによって、その感はいっそう強まると伴に、この句はなつかしい一枚の絵のようにも見えてくる。だがそれは動かない絵ではない。〈うらぶれつつも〉は現在進行形であり、そこには作者の「自己の投影」がある。さらにこの〈も〉には時代の流れに対する叛意も感じられる。すなわち作者は、この1句の中で、自己を相対化しているのである。「郷愁」とは「幻想」のことであり、言い換えれば、その「幻想」の中から現在の自己の位置・位相を確認しようとしているのだ。

先輩にお辞儀を深く男梅雨

鰻屋の仲居が妙に打ち解けて

この通俗性も作者の狙いのひとつであるようだ。

1句目の〈男梅雨〉には〈女梅雨〉が対応する。〈男傘〉に〈女傘〉もあるが、ここは〈お辞儀〉を通しての男同士の世界である。バンカラ学生の世界か。はたまた仁義の世界か? いずれにしてもその古さは否めない。だがそこには、そこはかとないホモ・セクシャルな雰囲気が漂っていることを見逃してはならない。それは、かつては誰でもが経験したであろう遠い記憶の中にあるもの。これもまた郷愁という幻想の中から導き出されたものだ。

2句目の〈鰻屋〉。それに〈仲居〉が妙になれなれしいとくれば、これはもう永井荷風先生の世界なのかもしれない、というのは話の飛び過ぎ。表現としては、〈鰻〉のぬるぬる感とその〈仲居〉の体の動き、喋り方、肌の質感、等々との取合せの面白さを味わった方がいい。

でも、それだけであろうか。

なぜ〈仲居〉は〈妙に打ち解けて〉いたのであろうか。それは作者にもわからない―というのがこの1句の仕立て方だ。このように疑問を残す句、すなわち読者に「問い」を残したままの句は、そこから後が本当の「読み」の始まりとなる。

句中の主体は、妙になれなれしいその〈仲居〉との距離を楽しんでいるかのようだ。〈鰻屋〉に続く〈仲居〉(古くは「女中」とも称した)という言葉は、これまた懐かしさを誘引するに充分である。すなわちその懐かしさの中にあるセクシャルな関係性。

さらに踏み込めば、そういう関係性は、相手が人間であろうが、動物であろうが、果ては山川草木であろうが、これまた遠い記憶のなかにあるエロチシズムに通じるものである。そういう読みも可能ではないか。

岸本尚毅に〈おばさんを姐さんと呼ぶ懐手〉(『舜』)がある。〈姐さん〉〈懐手〉という言葉を使いながらも近代的な洒落た1句となっている。だがそこに、読者への「問い」はない。「問い」はないがその軽さがいい。

では、太田句の〈鰻屋〉〈仲居〉と比べてみるとどうなるか。それを考えてみるのも一興である。 


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691号 2020年7月19日
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