【週俳7月の俳句を読む】
日々
桐木知実
◆不自然 橋本直
一家皆公務員なり通し鴨 橋本直
就職活動をするとき、地元を離れるか否かでまず一つの大きな決断になると思う。一家全員が公務員という「安定」を示唆するような事実と、飛び立たず残り繁殖する通し鴨の事実とが響き合う。堅実な在り方が込められた句。
みてをれば蚯蚓になにかみえてゐる 同
人には見えないものが他のものには見えている、といった感覚はよくあるものの、蚯蚓となると一体何が見えるのか気になる。蚯蚓の動きをぼうっと見ているだけであった筈が、いつのまにかその蚯蚓の目を探し目線の先を探している。犬猫などの人の生活に近しい存在なら見えているものの想像もつくかもしれないが、蚯蚓となると本当に思いつかない。あるいは、思いつかないけれどそれを悲嘆しなくて良い気軽さがある。
不自然な川不自然な小鬼百合 同
自然というものは実に複雑な言葉で、なにが自然でなにが不自然かの境界は非常に曖昧である。見たままの光景が現実なのだとはわかっていても、自分の思っている「自然な」位置にそれが無いだけで違和感を覚えてしまう。どことなく潔癖というか、完璧主義を感じさせる。けれど不自然さは人間が認識しているから生まれた概念であり、この川と小鬼百合の形、音、色、匂いは人間が関与しない実際の自然の在り方なのだと思う。大地を人が畏怖するものとして見ている一句だと感じた。
◆息災 太田うさぎ
軽薄なふりで夜店に遊びしこと 太田うさぎ
祭りというのはどうにも浮き足立ってしまう。単純にわくわくするだけではなく、通りすがる人が皆他人であるという認識が強くなる気がする。地域の祭りなんて知り合いばかりで、会えば立ち話が始まるのが面倒だなあと分かってはいるのだけれども。憂鬱な学生時代の知り合いとすれ違うかもしれないと分かっていても、いつもより声が大きくなるし歩幅が大きくなる。知り合いの声に呼ばれても、聞こえなかったと言い訳ができる。普段できない軽口なんかを、初対面の夜店の店主と言い合ったりもできる。
水打つにつけても長き腕かな 同
たまに、何だか妙に腕の長い人がいる。我が家では兄がそうだったのだが、ひょろりと高い身長に対しても長いなあと思う。水を撒くとき日焼けしていない腕の内側が見えて、それの面積が妙に大きいと日常の動作でも違う動きをしているような、不思議な感覚になる。
流れ着き噴井に溶くるレシートよ 同
なぜかわからないが、水路など水に捨てられたレシートの光景は夏の印象が強くある。溶けるまでとなると結構な時間が経っていて、それを捨てた人は勿論誰も見向きもしていなかったのだろう。生活の一部が記された紙だと考えると、鬱陶しい夏の暑さと相まって何だかやるせ無い。
◆森に 村上瑛
返球は転がしてやる朝曇 村上瑛
キャッチボールの相手は幼い子か。昼間は暑いので朝のまだ涼しさの残る時間帯に遊ぶ夏休みの一景。と初見で読んだが、もしかしたら犬などのペットが相手である可能性も見えてきた。どちらにしろ、仲良く遊びつつ相手を愛おしむ視線が感じられる。
眼鏡拭くちからにつまむ団扇かな 同
蠅叩放れば終わる旅支度 同
団扇の句では壊さないように丁寧に触れるなんとも繊細な指先が見えるが、蠅叩の句からは少しの大雑把さが窺える。この2つを扱っている人が違う人なのか同じ人なのかはわからないが、同一人物だと仮定するとそれぞれの物に対する扱いの違いが面白い。涼を求めるだけでなく絵柄や造形の美しさも含めて軽やかにつまむ団扇。旅支度を終えたと言いつつも、鞄の周りには雑多にいろいろなもの(旅には不要だと切り捨てたもの)が散らばっていそうな蠅叩の扱い。日常で扱われる物のイメージをうまく落とし込んでいる。
湯にレンジに夕餉任せる油蟬 同
暑い時期は本当に台所に立つことが億劫だ。それが一人暮らしなら尚更で、1人分の料理をする事自体が面倒なことも相まって、よくレンジや電気ケトルにはお世話になっている。窓を閉めても聞こえてくる油蝉の音は、それ自体に温度があるかのように暑さを感じてしまう。人間、活動するには限界の温度がある。蝉には丁度いいらしい。
一家皆公務員なり通し鴨 橋本直
就職活動をするとき、地元を離れるか否かでまず一つの大きな決断になると思う。一家全員が公務員という「安定」を示唆するような事実と、飛び立たず残り繁殖する通し鴨の事実とが響き合う。堅実な在り方が込められた句。
みてをれば蚯蚓になにかみえてゐる 同
人には見えないものが他のものには見えている、といった感覚はよくあるものの、蚯蚓となると一体何が見えるのか気になる。蚯蚓の動きをぼうっと見ているだけであった筈が、いつのまにかその蚯蚓の目を探し目線の先を探している。犬猫などの人の生活に近しい存在なら見えているものの想像もつくかもしれないが、蚯蚓となると本当に思いつかない。あるいは、思いつかないけれどそれを悲嘆しなくて良い気軽さがある。
不自然な川不自然な小鬼百合 同
自然というものは実に複雑な言葉で、なにが自然でなにが不自然かの境界は非常に曖昧である。見たままの光景が現実なのだとはわかっていても、自分の思っている「自然な」位置にそれが無いだけで違和感を覚えてしまう。どことなく潔癖というか、完璧主義を感じさせる。けれど不自然さは人間が認識しているから生まれた概念であり、この川と小鬼百合の形、音、色、匂いは人間が関与しない実際の自然の在り方なのだと思う。大地を人が畏怖するものとして見ている一句だと感じた。
◆息災 太田うさぎ
軽薄なふりで夜店に遊びしこと 太田うさぎ
祭りというのはどうにも浮き足立ってしまう。単純にわくわくするだけではなく、通りすがる人が皆他人であるという認識が強くなる気がする。地域の祭りなんて知り合いばかりで、会えば立ち話が始まるのが面倒だなあと分かってはいるのだけれども。憂鬱な学生時代の知り合いとすれ違うかもしれないと分かっていても、いつもより声が大きくなるし歩幅が大きくなる。知り合いの声に呼ばれても、聞こえなかったと言い訳ができる。普段できない軽口なんかを、初対面の夜店の店主と言い合ったりもできる。
水打つにつけても長き腕かな 同
たまに、何だか妙に腕の長い人がいる。我が家では兄がそうだったのだが、ひょろりと高い身長に対しても長いなあと思う。水を撒くとき日焼けしていない腕の内側が見えて、それの面積が妙に大きいと日常の動作でも違う動きをしているような、不思議な感覚になる。
流れ着き噴井に溶くるレシートよ 同
なぜかわからないが、水路など水に捨てられたレシートの光景は夏の印象が強くある。溶けるまでとなると結構な時間が経っていて、それを捨てた人は勿論誰も見向きもしていなかったのだろう。生活の一部が記された紙だと考えると、鬱陶しい夏の暑さと相まって何だかやるせ無い。
◆森に 村上瑛
返球は転がしてやる朝曇 村上瑛
キャッチボールの相手は幼い子か。昼間は暑いので朝のまだ涼しさの残る時間帯に遊ぶ夏休みの一景。と初見で読んだが、もしかしたら犬などのペットが相手である可能性も見えてきた。どちらにしろ、仲良く遊びつつ相手を愛おしむ視線が感じられる。
眼鏡拭くちからにつまむ団扇かな 同
蠅叩放れば終わる旅支度 同
団扇の句では壊さないように丁寧に触れるなんとも繊細な指先が見えるが、蠅叩の句からは少しの大雑把さが窺える。この2つを扱っている人が違う人なのか同じ人なのかはわからないが、同一人物だと仮定するとそれぞれの物に対する扱いの違いが面白い。涼を求めるだけでなく絵柄や造形の美しさも含めて軽やかにつまむ団扇。旅支度を終えたと言いつつも、鞄の周りには雑多にいろいろなもの(旅には不要だと切り捨てたもの)が散らばっていそうな蠅叩の扱い。日常で扱われる物のイメージをうまく落とし込んでいる。
湯にレンジに夕餉任せる油蟬 同
暑い時期は本当に台所に立つことが億劫だ。それが一人暮らしなら尚更で、1人分の料理をする事自体が面倒なことも相まって、よくレンジや電気ケトルにはお世話になっている。窓を閉めても聞こえてくる油蝉の音は、それ自体に温度があるかのように暑さを感じてしまう。人間、活動するには限界の温度がある。蝉には丁度いいらしい。
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