【週俳7月の俳句を読む】
夏の到来
常原 拓
教室中でメロスの激怒夏に入る 村上瑛
国語教科書で出合うあまりにも有名な一文。「激怒」に続く二文目の「邪知暴虐」も暑苦しい。中学生が犇く教室で、音読の声が響く。季語「夏に入る」がよく効いている。嗚呼、夏が到来したのだ。
返球は転がしてやる朝曇 同
幼子とのキャッチボール以前のキャッチボール。夢中でボールを追う姿が愛らしい。この子もいずれは球児となっていくのであろうか。猛烈な暑さの前、静かな朝のひと時が穏やかに描写された一句。
紫陽花やうらぶれつつも文具店 太田うさぎ
「うらぶれつつも文具店」。どの町にも一軒はあるのではないだろうか。曇った硝子ケース、老いた店主、独特の匂い…。年月を経ても、どこかしら残る文具店としての佇まい。そして、店先の紫陽花。紫陽花はいつも私たちの生活と共に在る花。
屈みゐし人のつと立つ渓蓀かな 同
屈んでいるのは渓蓀を愛でている人か。人にも渓蓀にも掛かる「つと立つ」という措辞で、人と渓蓀のイメージが一体化する。夏の盛り、凛とした空気が漂っている。
ささやかな独裁起こすかき氷 橋本直
鮮やかなシロップに練乳や金時で彩られたかき氷ならば、「一口頂戴」と言われても躊躇してしまうものだ。「ささやかな独裁」とは言い得て妙である。しかし、デコレーションが施されたかき氷そのものが、小さな独裁者を擁する夏の要塞のようにも思えてくる。
みてをれば蚯蚓になにかみえてゐる 同
蚯蚓に物は見えない。かといって、作者は蚯蚓と同化しているわけではない。作者が見ているのはあくまでも蚯蚓であり、〈見る〉ことによってその蚯蚓に何か見えていると言っているのだ。この句は、俳人の〈見る〉という主体的な行為そのもの、ひいては「客観写生」への問題提起ではなかろうか。
蚯蚓に物は見えない。かといって、作者は蚯蚓と同化しているわけではない。作者が見ているのはあくまでも蚯蚓であり、〈見る〉ことによってその蚯蚓に何か見えていると言っているのだ。この句は、俳人の〈見る〉という主体的な行為そのもの、ひいては「客観写生」への問題提起ではなかろうか。
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