2026-01-11

小野裕三【句集を読む】マブソン青眼句集『ドリームタイム』評 根源にある、ごりごりとした肉感性

 【句集を読む】

根源にある、ごりごりとした肉感性
マブソン青眼句集『ドリームタイム』評
 
小野裕三

※海原 2025年10月号より転載。


この句集では、五七五という我々が親しんできたものではない、新しい韻律の展開がひとつのテーマとなる。それは、五七三という形で規定され、作者の第八句集・第九句集でも取り組んできたものだ。本句集は第十句集となるが、一冊を通して読んでみて、体の中で奇妙なスパークが起きるのを感じた。俳句の韻律を踏まえつつも、俳句の韻律ではない。字余り、字足らず、というものとも違っていて、五七五とは明確な距離を取る独特のオルタナティブになっている。

冬の蜘蛛餓死を楽しむ正午

例えばこの句を五七五にするのは簡単だ。「冬の蜘蛛餓死を楽しむ正午かな」とすれば、定型としての収まりはいい。

石と石が交尾し合って西日

この句も、そもそも上五がすでに字余りではあるものの、「石と石が交尾し合って西日射す」「石と石が交尾し合って西日照る」などなど、いくらでも五(六)七五にする方法はある。あるいは、どうせ頭が字余りなのだから、最後も字余りで収めるやり方だってある。「石と石が交尾し合って西日の照らす」みたいな形でも、それはそれで面白い。それでもこれらの二句で作者は、最後の二文字に至る地点までは正確に俳句の韻律を踏襲しつつ、その最後の二文字をあえて外した。字足らずとも違う確かな意思として。

これらの句を五七三にした効果として、五七五という鉄板の形の、その残像のようなものがどうしても体の中にむずむずと湧いてきて、それゆえに文字通り途中でふっと宙空に自分の鉄板の感覚が立ち消えてしまったあとに、ごりごりとした肉感性を持つ不安感のようなものがそこに残る。そしてその肉感性や不安感は、今の私たちの体の中にある根源的な何かにとってとても迫真性のあるものにも感じられる。

もちろん、五七五ではない新しい韻律を模索しようという動きは、これまでも小規模ながら俳句界になかったわけではない。とは言いつつも、今までのところで、五七五に取って代わるオルタナティブの韻律形式が広く公認された事実はない。五七五を離れた韻律、ということになると、その組み合わせにはほぼ無限に近いような組み合わせが考えられる。その中でひとつだけを選び取るのは決して容易な選択ではないし、仮に誰かがひとつを選び取って多くの人に向かってそれを提言したとして、難しいのは、そのオルタナティブな形の裏付けとなる正当性を、多くの人に納得してもらうことだ。そのようなことはほとんど不可能に近いと言えそうだ。それはなぜかというと、そもそも五七五についても、その正当性を裏付ける論理は何も存在しないからだ。もしもそういう論理があれば、その論理からなにがしか派生する延長上の論理によって五七五以外の何かを正当化することも手続き論としては可能になる。だが、参照先となる大元の正当性がない以上、派生するものの正当性もありえなくなる。

唯一、五七五に対するオルタナティブが正当化されうる裏付けがありうるとするなら、それは肉感性だろう。五七五は詩であるから、それが詩である以上、理屈っぽい論拠が不在であったとしても、肉感性のみで大きな根拠になりうる。ある人が「この新しい韻律は、詩としての肉感的に特殊な効果をもたらす」と提言して、そしてそれが多くの俳人の肉体に共有されうるなら、それはそれでひとつの論拠になりうる。

おおよそ、自由律俳句は意識的にせよ無意識にせよ、この論拠だろう。そこでは、破調で作られるひとつひとつの自由律俳句からつどつど肉感性が立ち上がる。俳人それぞれに、いやもっと言えば各句それぞれに、個別の肉感性が現れる。それはそれでひとつのやり方だ。「墓のうらに廻る」の肉感性、「鉄鉢の中へも霰」の肉感性。そのようにそれぞれにポップアップに成立する肉感性を愉しむやり方はありうる。

このやり方は、詩にとっての肉感性ということを至上命題とするなら、間違っていない。なのだが、問題はあまりにも個別対処になりすぎて、普遍化しづらいことだろうか。つまり、多くの人がその手法を踏襲しようとしても汎用化が難しい。放哉や山頭火のような強い個性がなければ、ひとつひとつの自由律に確かな肉感性を見出していくことは難しい。

その観点から五七三の試みを見てみると、無秩序な自由律とも違う、ある意味で知略に基づいた独自性を作ったと言える。は、九割は五七五の形を踏襲していること、そして破調を一番最後に持ってきたこと、の二点だろう。冒頭から続く五七は、読み手の肉体の中に間違いなく五七五の潜在的な規範を呼び起こす。そうしておいて、最後は寸足らずで終わる。ここが字の多い破調ではないこともで、例えば五七七などであれば、読み手の肉体は五七五のバリエーションとしての字余りとして感知し処理しうる。五七で始まりながら、やや唐突に寸足らずに終わることで、五七五という韻律が築いてきた時空間の感覚を基準として、それに対して明確な距離を取る別の肉感的韻律を作り出す。

たいていはかぜをみているペンギン

この句もそうだ。頭から始まった九割は五七五を踏襲するように見えるがゆえに、結末ではいかにも座りが悪い感が残る。しかし、その寸足らずの間の悪さこそが、逆に何かの始原的な荒々しい力のようなものを感じさせる。それも、あくまで五七五という確立された時空に対する距離において成立するものなのだ。

第八句集で着手した五七三という実験を続けてきて、作者はそのような始原性を掴むコツみたいなものを会得したのだろうか、この句集の中ではその五七三の枠組みをすらも離れたとしても、どこかその面影を残しつつ、始原性の深みに嵌っていくような句をものにする。それは作者自身が「この世とあの世の二重写し」と呼んだものにもつながりそうだ。

滝の声に消される滝の声

鵜潜って水に輪と輪と無と無

鳩の交尾短し胡桃苦し

荒々しさの洗練性(洗練された荒々しさ、ではないので、念のため)みたいなものを感じるこれらの句は、作者のひとつの到達点かも知れない。これらの句では、言葉やリズムの反復がきわめて効果的であることにも注目したい。一句めでは、「滝の声」という言葉がそのままに頭と最後で繰り返される。二句めでも、「輪」や「無」が反復されるだけでなく、「と」が三回も出てくる。三句めも、「交尾」と「胡桃」の語感がどこか似ている上に、「し」という語尾も反復される。これらのどこか複雑な仕掛けのような言葉やリズムの反復は、やはりごりごりした肉感性を感じさせ、五七三という実験を続けた先に作者が掴み出した何かのようにも思える。

最後にやや蛇足ながら触れておくと、この始原性の探求がぐるっと一周回って現世に戻ってきたかのように、五七三俳句がきわめて世俗的な様相をときに見せるのも面白い。

間違い電話来て火焔土器怒る

夫婦喧嘩やめ火焔土器撫でる

これらの句では荒々しさは身を潜めるのだが、まるで喉の奥に魚の骨でも引っかかったような、小さいがしかし確かに存在する違和感がある。五七三で培った肉感性を、現世的な諧謔のほうに振るとどうなるか、という、それもひとつの派生的な実験なのかも知れない。

 

 






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