ラドゥ・シェルバン句集『百俳句(HYAKU HAIKU)』評(本書序文より和訳転載)
小野裕三
註: ラドゥ・シェルバン氏は、元・駐日ルーマニア大使であり、俳句愛好家でもある。日本文化や俳句について、出版や講演を通じたルーマニアでの啓発活動も行う。彼が最近刊行した句集『百俳句(HYAKU HAIKU)』の序文を私(小野)が依頼されて、執筆した。下記は、原文である英語から内容をそのまま和訳したものである。
俳句は世界を捉える。
もっとも大胆に。そしてもっとも繊細に。
すべての俳句は、世界を捉えるためのひとつの手かがりだ。そしてこの「捉える」というのは、世界を「感じる」ことと思われそうだが、それだけではない。それは、世界を「理解する」ということだ。世界を理解することが常に俳句では必要だし、それこそが俳句である。
例えば、次のような句がそうだ。
屋根裏部屋
燭台は今も守る
光の秘密
ついに見つける
風がどこから来るのか
初雪
これらの俳句は、世界の秘密を開示する。それは、光の秘密であったり、風の秘密であったりする。
ここでこんな問いを立ててみよう。作者は、まず世界に秘密があることに気づき、次にそれを俳句にしようと考えて、俳句の形にしたのだろうか。あるいは逆に、俳句にすることで、あるいは少なくとも俳句を作ることを意識することによって、世界の秘密に気づいたのだろうか。その答えは後者だろう。つまり、俳句という形式が世界の秘密を作者に開示した。
もちろん、それは俳句のみの特権ではないとは言える。すべての詩は世界の密やかな秘密を開く。それはきっとそうなのだ。
だがそうだとしても、俳句がもっとも大胆かつもっとも繊細にそれをなしうる。というのも、世の中にあるすべての詩の形式は、俳句より長い。俳句は、短くなくてはならない。他のどんな詩の形式よりも。短くするためには多くのものを切り捨てねばならず、そこには大胆さが必要だ。しかしその一方で同時に、その短さの中で作品として的確であるためには、世界の中にあるもっとも繊細な核の部分を正確につかみ出す必要がある。これこそが、俳句は大胆であり同時に繊細なものとして立ち現れる理由だ。大量の情報を切り捨てた上で精密に凝縮するという行為の中に、世界に対する直感的な理解が含まれる。そしてこの作者の感性は、そのような大胆さと繊細さにおいて秀れたものだ。
そのような俳句の持つもっとも核心的な本質を確かに踏まえつつ、その上でこの作者独特の感性の開花がこの句集には一貫して見られる。
大胆さと繊細さということで言えば、次のように季節を捉えた句は典型的だろう。
お香の煙
夏よりも高く
門の松の木
南に飛ぶ
鶴は嘴に咥える
秋のまるごとを
春の女王
花の王座にあり
世界を統べる
季節そのものを大きく捉えること。これらの句での季節の捉え方の大胆さは、驚くべきものだ。一句めでは、夏が高さの比較の対象になる。二句めでは、秋のまるごとが鳥の嘴に咥えられる。三句めでは、花の王座にいる春が女王となり、世界全体を統治する。 これらの句は、そのことを率直に語る。ここでの季節の大胆な捉え方は、表面的にはいささか奇異なものとも見え、何かの転倒のようにすらも思える。しかしながら、深層においてはまさに世界そのものの正確な反映とも見える。つまりこの驚くべき転倒こそが世界なのだ、とこれらの句は感じさせる。
また、大胆さと繊細さの並立は、次の句のように大きなものと小さいものという形でも現れる。
灰色の夜
海の殿堂の上に
白い雨の水門
たくさんの雨
街は溢れかえる
小さな傘で
一句めでは、白い雨粒が集まって水門のように目に映る。二句めでもやはりたくさんの雨が降るが、それが洪水のような大きなイメージと小さな傘、という大小の対比で彩られる。俳句において対照というテクニックを使うのは一般的な手法だ。だが、これらの句で面白いのは、その二つが単なる並置ではなく、大と小が切れ目なくつながってついには融合したイメージを形作ることだ。それはさきほども触れた転倒に近い感覚をもたらす。
この転倒した感覚こそが、この句集において作者が発見した世界の秘密なのだが、この感覚は、俳句の中での美しい鮮烈さや律動としてときに姿を現す。
鮮烈さということでは、次の句がそうだ。
オペラ公園
二色の沈黙
雪とカラス
双子の雪
同じ無垢のひとひら
北と南
これらの句に見られる、大胆な見立てゆえの鮮烈さはすばらしい。世界が白と黒、あるいは北と南、でしかできていないかのような大胆なイメージ。音もなく雪ばかりが一面に降る世界。その世界を満たす、鮮烈で静かで確かな力の漲りを、この作者はまたしてもその大胆な繊細さによって捉えた。余分な末端や詳細を削ぎ落とすことで、この大胆な構図の中から世界の本質的な繊細さが立ち上がる。きわめて単純でありながら、世界の隅々まで隈なく正確に捉え尽くすような印象をこれらの句は与える。
そして律動ということでは、次のような句が挙げられる。
冬の夕焼け
鋪道や壁の上に
影の劇
葉のバレエ
風笛の音に
静けさのショー
結婚相談所
ダンスを学び初めての
雪のひとひら
これらは、大胆さによって掴み得た、世界の真の繊細さが本質的に持つ律動なのだろう。その繊細さは、世界を祝福する美しい律動として俳句の中に現れる——一句めの美しい影の動き、二句めの葉や音の律動、三句めの初めての雪と踊る人。これらの句を読むと、世界がその内なる力によって、瑞々しく震えているように感じる。そしてこれらの句は、日本に生まれ育まれた俳句の本質を丁寧に踏まえつつ、ヨーロッパ的な感性を加えたもののように思える。だとするならば、それは俳句という日本的な美意識から多くを受け取りつつ、さらにヨーロッパ的な美意識を加えた、新しいスタイルの美のあり方とも言える。
そして最後に、このような大胆さと繊細さの併存による転倒のような感覚は、その二つの要素の相互作用を通じて、余韻のようなものを生み出す。
鐘楼の中で
反響が満たす
スズメバチの空っぽの巣を
静物
かつての花の花瓶に
虚ろな夏
蝶の羽根が
書物の上で開く
言葉の花粉
染み渡る鐘の響き。花の枯れた花瓶。花粉のような頁の上の言葉たち。これらは俳句特有の余韻や余白の印象を与えるが、その根底にあるのは大胆さと繊細さの併存が生み出した転倒感覚だ。
ここまで見てきたように、この句集は秀れた一冊だ。それは、俳句という文芸に対する深い理解と、そして作者が個人的な特質として持つだろう大胆さと繊細によるものであり、それらすべてが俳句形式の中で効果的に作用している。
※本書の原文は下記で読むことができます。
https://www.thehaikufoundation.org/omeka/index.php/items/show/7292
※ラドゥ・シェルバン氏のブロフィールは、下記の在ルーマニア日本大使館ウェブサイトなどをご参照ください。

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