韓国ソウルにて西洋人と日本人で語った俳句とアートのこと
ラファエル・ローゼンダール+小野裕三
今年の6月、韓国のソウルを訪れた。俳句をテーマとしたトークショーに登壇するため、現地よりの招待を受けての訪問で、対話の相手はラファエル・ローゼンダール。オランダにルーツを持つNY在住のアーティストで、インターネットアートの先駆者として世界的にも知名度が高い。そんな彼が、ある機会に来日した際に俳句のことを知って興味を抱き、やがて彼自身が多くの俳句を作るようになる。そんな彼の句集が韓国で刊行されることになり、僕がその句集での解説文執筆および彼の句の日本語訳の依頼を受けた(この句集での俳句は英語・韓国語・日本語の3カ国語で表記)。その刊行記念のトークショーに僕が呼ばれた、というのが事の経緯になる。異言語・異文化・異ジャンルを出自とする彼のhaiku観は、日本の俳人たちにも興味深いものではないかと考え、当日のトークショーの要点をここに文章の形で和訳掲載する。(小野)
▲当日の会場の様子
芭蕉の句に人が見るのは、三百年前の池ではなく常に新しい池
小野: (冒頭にて、俳句にあまり詳しくない韓国の聴衆に対して俳句のルールや歴史を簡単に説明したあとで、本題に入る)ラファエルの俳句は、五七五や季語のルールに従わない独特のスタイルです。例えば「悲しかった / ステーキを食べた / いい気分だ」などの句で、放哉や山頭火などの自由律俳句を思わせます。それでは最初の質問ですが、あなたが俳句と出会ったとき、俳句の何があなたを魅了したのでしょう?
ローゼンダール: 私は視覚芸術の作家なので、視覚によるイメージの作品をたくさん作ってきました。そして芭蕉の句に初めて出会ったときに思ったのは、それが非常に視覚的であるということです。ただしそれは読み手の心の中で生じるものです。物理的な絵に描かれた色は時間が経てば褪せていきます。でも俳句は、あらゆる世代が新しい解釈をしていき、それは決して色褪せることはありません。
小野: あなたは、例えば電車を待っている時間など、移動や旅行の合間の時間が俳句を作るきっかけになる、と言っています。俳句はいつもそんなふうに作っているのですか?
ローゼンダール: 映画監督のスピルバーグは、「世界は叫ぶが、インスピレーションは囁く」と言っています。つまり、インスピレーションを受け取るには静かである必要があります。でも、コンピューターを使っていると、次々とメッセージや通知が来たりして静かな環境にはなれませんね。電車の中というのは、そういう意味で雑事や雑念に邪魔されずにインスピレーションを得やすい環境の、ひとつの象徴みたいなものです。
小野: 俳句を作ることは、あなたに何をもたらしますか?
ローゼンダール: 私にとって、何かを作ることはとても神秘的なことです。椅子に座って、そこには何もないのに、そこから何かが生み出される。それが俳句であれ絵画であれ、何かを生み出すというその感覚が私は好きなのです。あるときは、アート作品のタイトルを考えているかも知れません。でも、そのタイトルが俳句になることもあるし、逆に俳句がタイトルになることもあります。アートというものは錬金術に近いものです。無から何かを生み出す感覚は、何かから金を生み出す錬金術に近いもので、まさに魔術です。一般に創作というのは、自分の内側にあるものを捉えて外の世界から見えるように外側に出すことですが、俳句とはまさに他の人の心の中で何が動きだす瞬間を作る装置ですからね。
小野: あなたの俳句は季語も五七五も取り入れていないので、「短さ」という俳句の特徴に特化しているかのようです。私の考えでは、俳句の「短さ」にはいくつかの利点があります。例えば、俳句は特別な準備、例えば機材・材料、資金、スタッフ、などがなくても作れますので、初心者でも俳句を始めようとするのは簡単です。また、いろんな場面で即興的に俳句を作るのも容易です。俳句には「吟行」という習慣がありますが、屋外を歩きながらその場で俳句を作ることはとても一般的なことです。一方で、例えば長い詩や小説などは通常は机に座って書かれるでしょうから、その点は俳句との大きな違いです。
ローゼンダール: アートはなぜ存在するのか、これは美術家にとって大きな問いです。例えば音楽は人々がダンスや結婚式をするために必要ですが、アートはそういう意味での実用性はありません。でも、世界が混沌とすればするほど、何かの焦点が必要になります。アートはその焦点を作るのです。そして俳句もまさにいろいろなことの中から集約的なひとつの焦点を見つけ出すもので、その意味で俳句の簡潔さはアートに似ています。俳句は常に、記憶ではなく瞬間なのです。例えば、芭蕉の古池の句を読んだとき、そこに私が見るのは三百年前の池ではなく、新しい池です。俳句を読むたびにその人の中で新しい池が生まれるのです。俳句を何度読み返しても、その印象は新鮮です。このように時間に縛られないという特性が、俳句にはあります。
俳句もアートも虫眼鏡のように、ありふれたものへの光を変える
小野: その意味では、俳句は他のさまざまな文学形式とは異なる特徴を持っているということになりますか?
ローゼンダール: 俳句より長い他の文学形式には、始めと終わりがあります。でも俳句には始めも終わりもなくて、ひとつの瞬間しかないですね。
小野: そうです。始めと終わりがないことこそが、俳句の大きな特徴です。
ローゼンダール: 一般的に、美術家の捉え方として、チューブから絵の具を絞り出すようなもの、と捉えることもできます。その場合、いつかは描くべきものが尽きてしまいますね。ですが、美術家を虫眼鏡のようなものと捉えることもできます。外界にある何かに太陽の光を集めて独自の焦点を当てるということです。その場合、美術家にとって描くことが尽きることはありません。私は虫眼鏡の比喩が正しいと思っています。つまり太陽の光自体はどこにもあるありふれたものですが、美術家がレンズとなって独自の焦点を作り、そこから見る者へとエネルギーが生じます。それが美術家の役割なのです。俳句もまさにそうで、どこかの場所に行くと、そこでの光はありふれたものですが、俳句はその光を変えるのです。
小野: その虫眼鏡の比喩は面白いですね。
ローゼンダール: 美術家への比喩として、ワニもあります。つまり、ワニは大きな口と鋭い歯で貪欲に食べます。それは美術家の好奇心を表します。それで、たくさん食べると尻尾が伸びていきますので、人々はその尻尾のことを称賛するわけです。それが作品ですね。でも、美術家自身にはその尻尾は見えないんです。彼らはただ好奇心のままに何かを食べ続けるだけです。私の俳句もそうですよ。自分では何をしているのかもわからず、ただ好奇心のままに作っているのです。「楽しさ」というのが私の仕事では大切で、あることを選びとって私が何かをやるのはそれがもっとも「楽しい」からなのです。アート作品でも俳句でもそうです。
小野: 俳句の「短さ」のもうひとつの特徴は、何かを簡潔に明確に伝えられることです。ですが、その簡潔さは、作者と読者が正確に同じ意味やイメージを共有できることを意味はしません。俳句は簡潔さゆえに逆に、多義的になりえます。特にその言語に内在する固有の仕掛けのようなものを使うと、そうなります。英語で書かれたあなたの俳句にもそういう例が多くあり、日本語に訳すのに私は大変に苦労しました。
ローゼンダール: そうですね。でも、それは詩の翻訳にはつきもののことでしょう。そこは、小説などの翻訳とは違う点です。翻訳というのはどうやったところで、完璧にはなりません。芭蕉の句は、やはり日本語で読まれるべきだと思う人はいるでしょう。言語の持つ文化的背景の違いによって、文学作品への理解は変わってきます。それは絵画でも同じです。私自身はオランダに文化的背景を持ちますが、例えばフェルメールの絵への理解は、オランダの風土を知っていることで、より体感的なものになります。そのように、文化や言語の壁は必ずあります。でも、こうやって私の俳句が日本語や韓国語に翻訳されて、それが人のつながりを広げているのはいいことです。それに、私は誤訳は悪いものだとは思っていません。誤訳は、作者の意図の可能性を拡大してくれます。
小野: 俳句の「短さ」に話を戻すと、それは短いがゆえに、読者に大きな想像力の余地を残します。これは一般によく指摘されることで、あなたが俳句をデジタルのコード(=プログラミングの言語で書かれたコンピューターに指示をする文章のこと)に喩えるのもそれに近いことだと思います。それともうひとつ、俳句はその短さゆえに容易に記憶して暗唱できます。日本の俳人の中には、暗唱できるという俳句のこの特性を重視する人もいます。それらの特性も踏まえると、俳句を読むことで読み手の中ではどのようなものが動き出すと思いますか?
ローゼンダール: 私がインターネット上で作品を発表し始めたとき、作品を置くURLに作品のタイトルを埋め込んでいました。例えば「すごくすごくごめんなさい.com (https://www.iamveryverysorry.com/)」みたいに。つまり、俳句を作り始める前から、私はテキストをアート作品のソフトウェアの出発点と捉えていました。そこでは、テキストがアート作品を受け手の心の中に展開させるのであり、それは俳句も同じです。
創作への恐れを止めるのは大切で、俳句はそのよい手段になりうる
小野: さきほど、俳句には始めと終わりがないという話がありましたが、それではあなたは俳句を作るときにそれを言葉としていかに切り取るかということを、どう考えていますか?
ローゼンダール: 私にとって、いい作品というのはさっと出来上がるものです。あれこれといじくり回すものは、だいたいいいものにはなりません。だから、俳句もスマートフォン上に4つくらいのバージョンをさっと書き出して、翌日にはその中からいいものを選ぶ、という感じです。それはどういうことかというと、人の脳の中にはふたつの違う部分があって、ひとつは編集者であり、もうひとつは創作者です。あなたが何かを創作するときには、編集者はそこにいるべきではないのです。それで翌日になって、編集者が戻ってくる。つまり、創作をしている過程では、あれやこれやと評価を下す編集者の言うことに耳を貸すべきではありません。
小野: その視点は俳句を考える上で示唆に富むと思います。つまり、俳句はとても短いから、創作者と編集者を分けるのが容易なのです。例えば私が長い文章を書くとき、しばしば私の中の編集者的な側面が動き出して、干渉を始めます。しかし、俳句は短いので、そのような干渉が始まる前にはもう書き終えているのです。
ローゼンダール: 創作に自分の中で優劣をつけ始めると、それが創作を続けることへの恐れになりますからね。絵画でも俳句でも、誰でもが大きな可能性を持っているのに。だから、創作にとって大切なのは、そのような恐れを取り除くことです。
小野: なるほど。そのように考えれば、俳句はその創作への恐れを取り除くためのとてもいい方法かも知れませんね。ところで、俳句は日常生活を重視します。つまり芸術はわれわれの生活から離れたところにはなく我々の生活の中にこそある、という考え方です。
ローゼンダール: それは私のルーツであるオランダの文化でも同じように考えます。というのも、西洋の絵画史を振り返ると、例えばイタリアの絵画はとてもドラマティックな内容のものでした。でも、オランダでは静物画が盛んでした。それは日常のものを描き、静かで、ドラマはありません。オランダの文化は、ものごとをあるがままに見るものが多くて、その意味では俳句に似てますよ。私は、アートというものは作家の個性と作品の素材とのぶつかり合いだと思っています。素材というのは、コンピューターだったり、キャンバスだったり、言語だったりするわけです。
小野: 俳句の場合は、素材が言語ということですか?
ローゼンダール: 人類の歴史においては、言語というのは最近の発明です。言語以前の層があるのです。言語は何かを理解する手段として必要ですが、人間には言語以前の何かの感情があるのです。言語というものは面白いもので、思考の一部でもあるので、純粋な素材とは呼べません。例えば、私がオランダ語を話すときと、英語を話すときでは、そこに現れる私の個性は変わります。でも一方で、言語は思考そのものでもないのです。
俳句もアートも、物語や論理を離れることで言語を超える
小野: 言語で個性が変わるとすれば、例えば俳句という形式で言語を使うとき、あなたは自分の中の別の個性を見つけているのですか?
ローゼンダール: どうでしょうか。俳句を作るとき、私は私自身の思考を観察していますが、でも結局、私が見つけているのは、みんなの個性だと思います。誰もが自分の解釈ができますからね。
小野: そうですね。俳句はオープンで結論を持たないのが特徴だ、とあなたも以前に述べていました。私もそのことが、俳句の大きな特徴だと思います。例えば、世界中を見渡せば、各言語や文化に最短の詩型があります。英語ならリメリックがあります。韓国でも時調というものがあり、長い歴史を持っています。ですが、リメリックも時調も、だいたい俳句の三倍近い情報量があります。だから、そこには物語、つまり起承転結が入ります。でも、俳句には起承転結がなく、だから結論というものもないのです。俳句は世界で一番短い詩だと言われますが、それゆえに、他の多くの詩型のような起承転結がそこには入らない。そのことによって、俳句は物語とか論理といったもの、つまり言語が持っているとても本質的な何かを超えようとしているのだと私は思います。
ローゼンダール: 私は、いろいろな文学形式の間に優劣をつけるつもりはありません。ただ、私自身のことで言えば、小説を書こうとしたことはありません。それが私の個性なのでしょう。物語を持たないという俳句の性質が私に合っていた、ということです。
小野: 私の見方では、言語を超える、という俳句の潜在的な欲望は、アート全般にも共通する欲望だと思います。俳句はそのことを短さによって達成しようとしているわけです。そのことをあなたはどう思いますか? 例えば、作品を最小化、シンプル化することによってアート作品を作ることがあなたの方法論のひとつだと思いますが、その姿勢は俳句にも通じている気がします。
ローゼンダール: 例えばカメラを考えてください。その性能は年々上がって画像は精細になっています。でもどれだけ精細になっても、それは現実の「写し」でしかなく、現実そのものにはなりません。その意味では、結局、どんな表現手段も現実の要素を何らかの形で取捨するものでしかないのです。そして例えばビデオゲームを考えてください。初期のビデオゲームが抽象的だったのは、技術的な制約がそれを強いたからです。そしてそのような圧縮は、情報を失うことになりますが、初期のビデオゲームではそれが創造につながり、見る人の想像力を刺激しました。つまり、制約がまったく新しい文化を生み出したのです。マリオなど、初期のものはものすごくシンプルで、でもそのキャラクターはとても印象的で力がありますよね。どんなジャンルでも、例えばアニメーションの歴史を見ても、初期のものは技術上の制約からとてもシンプルになりますが、そこにすべてを込めなくてはならないため、そこに力が生まれるのです。
小野: それは俳句にも通じることですね。
ローゼンダール: そうです。それが私の言いたいポイントです。線や色に制約のあった日本の浮世絵でも同じことが起きたと思います。制約は、アーティストにエネルギーを生み出すのです。これしかできないのだ、と思うと、そのことがたくさんのアイデアを生み出すのです。
小野: アートと俳句とのつながりということでは、あなたは俳句を作るだけでなく、それを展覧会にビジュアル作品にして展示してきました。これは私から見てとても興味深いことです。そして今回、あなたは自分の俳句を本として出版しましたが、それはあなたにとってどのような意味を持ちますか?
ローゼンダール: 私のインターネットアートの作品は、家でも公共空間でも美術館でもどこでも楽しむことができます。それは時間や場所を選びません。私は、俳句もそれに似ていると思います。俳句は本の形式にすると時間を超えて読み手と一緒に旅をします。一方で私の展覧会では、ふだんは絵や写真を展示する場所に俳句があります。そのような場所で俳句に向き合うと、絵を見るのと同じような感覚でイメージが浮かんでくるのです。まさに絵と同じように機能するのが、とても興味深いと思っています。
俳句は、世界のさまざまな文化の感性を受け止める扉を開く
小野: 今や、世界の多くの国々で俳句の愛好者が増えています。そのように俳句を作る行為や、そこにある美学が人々に浸透していくことは、どのような影響を持つと思いますか?
ローゼンダール: 私はデジタルアートに加えて二年前に絵画も始めたのですが、そうすると美術館に行くと、全然違った見方ができますね。それは俳句だけに限りませんが、俳句であったり写真や音楽であったり、そういったものを始めると、物事を違った見方で見られるようになります。それは俳句だけが特別ということではありません。でも、私の場合は俳句がとても肌に合ったということです。
小野: 私はこれまで、国際俳句コンテストの審査員や選者をやってきました。本当にいろんな国から投稿があって、インドとかアフリカとかインドネシアとか、本当に多様です。そしてそんな俳句のひとつひとつに、それぞれの文化や風土が持つ独特の感性を感じます。短いがゆえの俳句のとっつきやすさが、そのように異なる感性を受け止める受け皿になっていると感じます。
ローゼンダール: それは、私がまさにいい例ですね(笑)。俳句はシンプルなので、「これなら自分にも作れそう」と思えるところがよさです。そんなことが世界中で起きているのでしょう。それはいいことですよ。芸術家や詩人の役割は、他の人に扉を開き、その関わりを促すことだと私は思っていますから。だから、今日はこうやって韓国のみなさんの前で話すことができて、とても感謝していますし光栄です。
小野: 私は、韓国の詩の本をいくつか読んだことがあり、どれも俳句に劣らず素晴らしいものでした。また、韓国がとても詩を書いたり読んだりすることが盛んな国であることも知っています。そんな国のみなさんの前でこのように詩とアートの話ができたことをとても光栄に思います。
(2026年6月18日、韓国ソウル市のイベント施設「Red11」にて開催)
【参考リンク】
・本句集を紹介するウェブページ(韓国語)
・本イベントを紹介するウェブページ(韓国語)
◀︎韓国で刊行されたラファエルの句集
◀︎2018年、十和田市現代美術館で開催された展覧会のリーフレット
ラファエル・ローゼンダール(Rafaël Rozendaal)
ニューヨーク市在住のオランダ系ブラジル人ビジュアルアーティスト。インターネットアートの先駆者として知られ、彼の作品を展示するウェブサイトは年間6,000万人の訪問者があり、その他に、絵画、インスタレーション、タペストリー、俳句も手がける。これまでの主な展示として、ポンピドゥーセンター、ホイットニー美術館、フォルクヴァング美術館、フランクフルト美術館、メディアアート研究所、アムステルダム市立美術館などがある。
ウェブサイト: https://www.newrafael.com/
小野裕三(おのゆうぞう)
大分県生まれ、神奈川県在住。「海原」「豆の木」所属。英国王立芸術大学(Royal College of Art)修士課程修了。句集(共著含む)に『メキシコ料理店』『超新撰21』『12 Untitled / 12 Haiku』。国際俳句協会評議員および英国俳句協会会員。
ウェブサイト: https://yuzo-ono.com/



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