【新・成分表4】
プラナリア
上田信治
俳句と、プラナリアと、「ちいさなのんちゃん」(永野のりこ)という漫画の話をします。
俳句というのは、プラナリアのようなもので、半分に切っても、まだ生きている、というオドロキが、この奇形的に短い形式の生命であるような気がする。
言葉に意味と姿があるとして 半分の意味と、半分の姿で、まだなにかが形をなしているというおどろき。
そこにあらわれた○○(何か)とは、人とプラナリアの中間のような、ただ生きて感じているだけの心、とでも言うべきものかもしれない。
「めんめ(目)でみてるの?」
これは永野のりこという人の描いた「ちいさなのんちゃん」というまんがのセリフ。
生まれたばかりの自分の子どもに、生来のコミュ障であるマンガ家が、どう話しかけていいか分からず、思わず出たのが、こんな言葉だった──という、一幕なのだけれど。
もう20年以上も前に読んで、そのときも、作って出るセリフではないと感心したけれど、この言葉だけは、本当にいつまでもおぼえているので、自分は感動していたのだ、と気がついた。
この母は、追いつめられてそんなことを言った。
何に追いつめられたかと言えば、赤ん坊が、こっちを見ているという事態にだ。
赤ん坊には言葉がない。
この母は、言葉をもたない存在のカウンターパートとして(カウンターパートとは、外交で、こっちが総理ならむこうは大統領というふうに、話し合いが始まるための同格の相手、という意味)自分も、言葉以前のタマシイとしての立場から、コミュニケーションをとろうとしている。
人と話すの、大の苦手なのに。
そして、この人は「めんめ(目)でみてるの?」と言った。
言葉がないけど、見てるよねー、あなたがいま得ているものは、視覚像っていって、めんめ(目)から入ってきてるのよ。
ていうか、いま、視覚像を得ている主体があなたで、あなたはめんめ(目)をもって生まれた生命なの。
こんにちは、赤ちゃん、わたしがママよ。
人格がなくても、言葉がなくても。タマシイは世界を見ている。
俳句は、たとえば自分にむかって「めんめ(目)でみてるの?」と問いかけるところから始まる。
そして、そのとき心にうかぶさざ波を、自然や生活のうたかたの諸相に重ねて、写しとる。それを職人仕事のような自分の楽しみとして、作るのだ。
言葉を通じて、逆説的に、言葉のないタマシイが見る世界を、思い出す。
成功すれば、それは、総じて清浄なものとなるし、世界に対するおどろきを含んだものになる。
それは、プラナリアという生きものが、かわいくもあり、キモくもあることに、似ている。
▷▷ 上田信治 秋のうた 10句
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