2020-01-12

【週俳12月の俳句を読む】淡い殻のようなもの 小野裕三

 【週俳12月の俳句を読む】
淡い殻のようなもの

小野裕三



実験のための明かりや冬景色 井口可奈

実験とは、人々の生活の何かを物理的に改善するために行われる。それは「近代」を象徴する概念かも知れない。人類を取り巻く物理的環境は、世紀ごと、世代ごと、年ごと、夜ごとに絶えず人類自身の手によって改善されるべきだ、という暗黙の考え方がそこにはあるようだ。そうならば、実験の明かりも美徳と見える。しかし、人類がもたらした地球の気候変動を目にする時、物理的進歩を追求することは本当に正しいのかとも思う。冬景色の大きな静けさが、そんな人類史的な問いにもつながる美しい景色の対比を生み出す。


冬浜にゆるやかに散り一家かな 松本てふこ

それが夏の浜なら、話はまったく異なる。一家は泳いだり、裸で砂に寝そべったり、ビーチボールで遊んだり、砂の城を作ったり、といろんなことができただろう。だが寒い冬の浜で一家ができることはおそらく、ただゆるやかに歩き回ること。その意味でこの句は、決して景色の躍動や広がりを作り出しはしない。しかし一方でこの句は、多くの人々の共通の記憶の中にある夏の浜の躍動感と、作者の目の前にあるだろう実在の冬の浜を的確に対照するし、「ゆるやか」という表現がそのバランスを支えている。


壁一枚へだてクリスマスは眠る 浅沼璞

壁一枚で隔てられたクリスマス。微かな音も聞こえるだろうし、隣の部屋の動きや気配も感じ取れるのだろう。誰かがその部屋で寝ているのだろうか。そうかも知れないし、あるいは人はいないのかも知れない。そこにはクリスマスツリーやいくつかの飾り物があるだけだとしよう。とすると、そこに眠るのはクリスマスという時間そのものだ。多くの人に幸せをもたらす時間そのものが、その到来を待たれつつ今まさに眠っているのだ。


棒鱈はにせものらしいそうらしい 樋口由紀子

この句は、下五が面白い。ある意味で言わずもがなというか、無意味な繰り返しでしかない。とは言え、それはまず句の中に心地よい反復のリズムを作る。上五中七と下五の発話者が同一人物なのかはこの句からは定かではない。別人物が同意しているのかも知れないし、あるいは同一人物の中で畳み掛けるように思考が響いているのかも知れない。そのようなモノローグや思考の反響の仕方が、個人個人が持つ淡い殻のようなものを思わせ、それゆえになんとも現代の時代性を感じさせる。


果汁一パーセントのジュース冬の星 相子智恵

果汁100%ジュースならね、意味があると思いますよ。あるいは少し譲って、50%や20%でもいいでしょう。でも、1%ってどうですか? いやあ、製造者としてもナチュラルなものを作るのにまったく興味がなかったわけじゃないんですよ、って、まるでそんな言い訳みたい。となると哲学議論のようで、1%の意図はまったく意図がないのよりもマシなのか、などなどと考えたり。でも、冬の星が輝く宇宙全体の大きさから考えたら、そもそも地球や人類なんて1%どころか、はるか小数点以下の存在比率なわけで、——と、このオントロジー論議はしばらく続きそうです。


推敲の果てに海鼠の句が残る 福田若之

この句は、人々の生活や自然について詳しくは描写していない。ただ、作者が海鼠について何か俳句を書いたのだろうという事実だけが示される。という状況を俳句にした、いわば「メタ俳句」で、そこでは原句である海鼠俳句についての手かがりは一切提示されない。となると、ただ海鼠の存在感がここでは純化されるだけだ。ちなみに、海鼠は英語で「sea cucumber」、つまり「海のキュウリ」と言うらしい。身も蓋もない比喩だが、その感覚、なぜかこの句の感覚に似ている。


時雨をり内勤の日のカーディガン
 岡田由季

ここで描かれた状況は、いかにも劇的なものではない。冬の雨。出かけることもなく事務作業をするオフィス。軽く羽織ったカーディガン。コートやジャンパーでもなく、カーディガン。派手に見た目を競うわけでもなく、防寒性に突出しているわけでもなく、どちらかというと日常性に溶け込んだ実用性がカーディガンという衣服の持ち味。でも、そんな日常性に溶け込んだ実用性にも詩はある。あ、それってまさに俳句のことか。


 井口可奈 好きだと決めたから愛します 10句 ≫読む
松本てふこ 家族旅行 10句 ≫読む
浅沼 璞 冬季十韻 10句 ≫読む
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