2024-04-28

小野裕三+ガートルード・ギボンズ haikuをテーマとしたロンドンでの現代アート展に参加して

haikuをテーマとしたロンドンでの現代アート展に参加して

小野裕三+ガートルード・ギボンズ


背景説明

小野裕三


2023年10月〜11月に、ロンドンのアートギャラリーで開催されたアート展に、俳句作品およびワークショップ講師として参加した。

このアート展は、haikuをテーマに現代アート作家たちが作品を制作し、英国の詩人数人と私がそのアート作品に呼応するhaikuを作って会場で音声として流す、という構成のものだった。

そのアート展について、私の友人である、ガートルード・ギボンズさんが展覧会評を書いて英国のオンラインマガジンに掲載してくれた。文中では「参加した小野裕三に質問をする」という趣旨で、私のコメントも引用されている(青字部分)。異文化・異言語そして異ジャンル(=アート)の視点から見た俳句、という内容は日本の読者にも興味深いのではと考え、その和訳をここに掲載させていただく。

なお、参考までにこのアート展のために私が作った俳句を一句引用しておく。

 蝸牛に一切合切という雨  小野裕三

 for a snail

 the rain as

 anything and everything  Yuzo Ono


以下が、ガートルードさんの文章である。


「SPLASH !  The Haiku Show」(White Conduit Projectsギャラリー)について

文: ガートルード・ギボンズ

 ※文中後半は小野裕三からのコメントの引用(青字部分

和訳: 小野裕三 


「SPLASH ! The Haiku Show」は、ポール・ケアリー=ケントと三宅由希のキュレーションにより、2023年10月6日から11月11日まで開催された。オリヴィア・バックス、マリサ・クラット、アビ・フレックルトン、市田小百合、稲岡亜里子、リサ・ミルロイの6人のアーティストによる「haikuの精神」を視覚的に表現するアート作品を展示。また、リチャード・メイヤー、小野裕三、タマール・ヨセロフ、ポール・ケアリー=ケントの詩人によって作られたそれらのアート作品に呼応するhaikuも音声にて展示された。


White Conduit Projectsギャラリー
屋外からの展示風景(ロンドン)

本展覧会は、日本古来のものとその西洋的展開との間で、俳句の定義、それと視覚性との関係、そこでの交流、について考えることを鑑賞者に要求する。そこでは、「(俳句の定義を)簡単に言えば、三行で構成され、時間の移ろいに言及する凝縮された詩である」として、松尾芭蕉(1644-94)の「古池」の伝統的な例が引用される。

 古池や 

 蛙飛び込む 

 水の音

英語の翻訳は下記。

 An old silent pond(古い静かな池)

 A frog jumps into the pond –(一匹の蛙がその池に飛び込む)

 Splash! Silence again.(ぱしゃん! 再び静けさ)


この「ぱしゃん(splash)」(ただし、英語の翻訳に表示されるこの言葉は、日本語の原句では直接的には書かれていない)を題名に冠した本展覧会は、俳句の精神を学際的かつ国際的に探求する。伝統的な定義はともかくとして、俳句を俳句たらしめるものとは何か? 他の芸術形態はどのように俳句の感覚を捉えることができるのか? 俳句にある抽象的な感覚を明示するのは困難だ。だからもっと簡単なのは、俳句を作る規則に触れたり、あるいは俳句に見られるより一般的なイメージや考え方を挙げたりすることだろう。英語の「ぱしゃん」というオノマトペは、音とイメージの両方の意味合いを含むが、その実態は掴みにくい。水がなければ起きないことで、生物であれ非生物であれ、何かの硬い物が水にぶつかることによってそれは起きる。そして「ぱしゃん」の後の感嘆符(!)は、中断や途絶、そして出来事の前と後にある水の静けさを仄めかす。


会場風景。手前: アビ・フレックルトン、
奥(左から右へ): オリヴィア・バックス、リサ・ミルロイ、稲岡亜里子

会場風景。手前: アビ・フレックルトン、奥: 市田小百合

この展覧会は、文章芸術と視覚芸術の両方で、俳句の形式と精神との間を行き交うものを国際色豊かに探求する。俳句の精神を受け継ぐ本展のアート作品は、時間、断片的で繊細なもの、変わらないものと変わるものの循環、郷愁や憧れ、といった観念を考察する。

市田小百合による官能的な写真は、欲望と静寂、そして自然における人間の居場所を表現する。稲岡亜里子による喚起的なプリントもまた、光に細心の注意を払い、アイスランドを舞台に一卵性双生児のペアを描くことで、同様の関係を問いかける。オリヴィア・バックスは、古新聞や絵の具、作り直されたオブジェの使用を通して、再利用と反復のことを考察する。アビ・フレックルトンの陶器は、その素材は親しみやすいものながら、そこで再構成された形は人の認識を拒む。リサ・ミルロイの絵画では、思いもしないパターンがフレームに収められ、鑑賞者の心の中にそれらの断片をつなぐ物語が形作られていく。マリサ・クラットの写真には季節を反映する題がつけられ、自然によって作られたパターンを捉える。それらの作品に寄り添うタマール・ヨセロフ、小野裕三、リチャード・メイヤー、ポール・ケアリー=ケントの詩は、丁寧かつ繊細にそれぞれのアート作品に呼応しており、その中には、アート作品を引用するテキストとして直接的に理解できるものもあれば、アート作品がもたらす感覚をさりげなく反映しているものもある。そう思えば、ギャラリーのアート作品の横にキャプションを置くという一般的によくあるやり方ではなく、このように作品に呼応する俳句を置くのもいい方法かもしれない、と考えさせられた。

俳句は視覚性との親和性が高いと言えそうだ。以前、私(ガートルード)が小野裕三とコンクリート・ポエトリー(訳註: 詩における視覚性を重視した前衛詩の手法)について議論した際に、彼は日本語にはさまざまな文字の系統があると言い(訳註: 漢字、ひらがな、カタカナのこと)、そのためいろいろな書き方の方法が選べて、たとえ同じ言葉であっても異なる書き方で書かれることがあるし、結果として視覚的な見え方も異なることがあると語った。

詩の文章が一般的にそうであるように、ページ上での位置、その周囲の空白、句読点の使い方は、言葉の意味や感じ方にとって重要なものだ。英語で言えば、ダッシュをどこまで伸ばすかであったり、あえて句読点を打たずそのまま空白へと続く行もあるし、行の中央あるいはそれ以外で区切ることもある。どの単語が句読点で区切られ、どの単語が剥き出しで空白へと続くのか?

私は、俳人である小野裕三に、文章と視覚性との関係や、俳句の精神が異なる芸術形態の間で翻訳可能かについて、この展覧会における彼のコラボレーションに関連しつつ聞いてみた。

英語の俳句の世界では「写真を見てそれに呼応する俳句を作ってください」と言われる機会はけっこうある。しかしながら、日本語の俳句の世界ではそれはほとんどない。日本語の俳句では、「季題」「兼題」と呼ばれるやり方が一般的で、ある言葉を提示されてそれを俳句の中に入れて俳句を作ってください、と言われるのが通常だ。

その意味で、今回の展覧会でアート作品の写真を見ながらそれに呼応する俳句を作るのは私(小野)には新鮮な体験であり、難しい作業でもあった。というのも、俳句という形式はある種の具体性を通常はその出発点とする。だからこそ、季題・兼題という具体的な言葉を使ったシステムが力を発揮する。そしてこの具体性が結果として微かな抽象性を生み出す。そういう仕組みが俳句の美であり、俳句の美学だ。

だが、この展覧会での作業はそれとは違うものとなった。一般的に言って、アート作品、特に現代アートの作品はきわめて抽象的である。したがって、そのアート作品に向き合って俳句を作るには、まずその作品の持つ抽象性を的確に掴み、次にその抽象性を俳句という具体性にしなくてはらない。つまり、ここでは具体性と抽象性の順序が通常とは逆になる。なので、非常に作りにくかった半面、結果としてできた俳句は抽象性の純度が非常に高いものができたと感じている。その意味で、今回の展覧会での俳句とアートの出会いを私はとても楽しんだ。

またその一方で、俳句の歴史をあらためて考え直すことになった。アートと俳句の関係は常に複雑なものであり続けた。特に、西洋のアートとの関係は、だ。

日本の俳句史上に有名な「第二芸術論」と呼ばれるものがある。日本が第二次世界大戦に負けて自分たちの文化にも自信を失っていた時、西洋文学を専門とした当時の高名な学者が、西洋の崇高で壮大なアートに比べれば、俳句のように些細で日常的なものは、アートと呼ぶに値しない、と主張した。それはせいぜい「第二芸術」とでも呼んでおけばいい、と彼は言い、この主張は当時の日本の俳句界を大きく揺るがした。皮肉なことに、この論への心理的反発が、日本の戦後俳句史を活性化したひとつの要因になった。

西洋美術の影響は技術的にも俳句を変えてきた。百年以上も前に、日本の近代俳句の基礎を作ったとされる正岡子規は、「写生」の概念を導入することで俳句を革新したが、その「写生」とは西洋美術の影響から生まれた手法だったとされる。また、1960年代には「前衛俳句」という新しい運動が俳句界を揺るがしたが、言うまでもなく、その「前衛」という言葉自体が西洋美術からもたらされた。19世紀末以来、日本の俳句は絶えず西洋美術の影響を受けることでその姿を変えてきた、と言っても過言ではない。

そのことは、俳句がそれ以前の本質を捨てたことを意味はしない。俳句の古い美の本質と西洋美術的な概念や技法をどう調和させて、現代にふさわしい俳句の形を作っていくか。それがこの百年以上の間の、日本の俳句の不変の問いだった。

その視点から興味深いのは、幾人かの西洋の偉大なアーティストたちが俳句への関心を示していることだ。例えば、米国の音楽家ジョン・ケージは「haiku」と名づけられた楽曲やアート作品を作っている。彼自身の著作の中でこんな言及もする。
山を心地よく照らす火は、遠くは照らさない。同様に、美しい形式は短い瞬間を照らすだけで充分だ。(中略)そう考えれば、ブライスが著書『俳句』で書いた〈芸術家の最高の責任は美を隠すことだ〉という言葉が納得できるだろう。(John Cage, Silence, London: Marion Boyars, 2017, p.131)
例えば、ジョン・ケージの「4分33秒」は、俳句的な作品なのだろうか。直感的には、その答えはイエスのように感じる。

ここまで見てきたように、俳句とアートとの関係は複雑だ。ひとつだけ言えるのは、美というものが具体性と抽象性との間の関係やバランスにおいて成立するものだとするなら、その三つのものの相関は、西洋の美術と、俳句では、明らかに何かが違う、ということだ。だからこそ、崇高な西洋美術に比べて俳句は些細で価値がないと非難した日本の学者もいる一方で、西洋美術にはない美の考え方を俳句に見出してそれに着目した西洋のアーティストもいた。それはおそらく、ひとつのコインの両面なのだと思う。

この展覧会では、タマール・ヨセロフによる現代俳句の実作ワークショップと、小野裕三によるイントロダクション・トークが行われた。この展覧会は、鑑賞者に俳句の精神に対する自分自身の理解や関係を考えるだけでなく、文化、言語、芸術形式がどのように互いに協力しかつ互いを通じて機能できるかを考えることを促す。

会場風景。手前: アビ・フレックルトン、
奥(左): マリサ・クラット、奥(右): 市田小百合


会場風景。稲岡亜里子、マリサ・クラット、アビ・フレックルトンの作品



写真はアーティストおよびWhite Conduit Projectギャラリーより提供

原文掲載のウェブサイト https://www.soanywaymagazine.org/issue-sixteen



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小野裕三 おの・ゆうぞう
大分県生まれ、神奈川県在住。「海原」「豆の木」所属。英国王立芸術大学(Royal College of Art)修士課程修了。句集『メキシコ料理店』(角川書店)、『超新撰21』(共著・邑書林)。現在、国際俳句協会評議員および英国俳句協会(British Haiku Society)会員。

ガートルード・ギボンズ Gertrude Gibbons
ロンドン在住。英国王立芸術大学およびヨーク大学で文学を学ぶ。フランス文学や演劇等のレビューを各誌に寄稿する他、著書に『The Phaistos Disk』『The Silent Violinist』がある。美術、小説、演劇、音楽、オペラ、建築と幅広い領域に関心を持ち、リサーチ・創作活動を続ける。


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