【週俳3月の俳句を読む】
覚めてのち夢へふたたび
とみた環
『背中』 宇佐美友海
きさらぎの銀河の果てのパイプ椅子 宇佐美友海
きららぎの銀河は、いまだ冴え冴えとして横たわり、その汀に据えられた一脚のパイプ椅子は、スチールの肌に冷たく星明かりを写す。何者のための椅子なのだろうか。それに坐ることが躊躇われるようだ。
ぼたん雪大きな指の攫ふ塔 宇佐美友海
ぼたん雪は、その冬の終末を報せる雪だ。その雪を空に搔きわけて来る白く大きな指は、今はまだ春を望まないのか。地上の塔が一本、苛立ち紛れのように根本から攫いとられてしまった。
流氷やいつかの私だつたもの 宇佐美友海
それでも公転は否応なしで、春からは逃れられない。逝く冬から置いてゆかれたものたちが、次々と此岸へ流れ着く。それらの中に、〈私〉の欠片が混じっていたものかどうか、春の胸裡は模糊として、既に判然としない。
伸びすぎた影から春の水離れ 宇佐美友海
心は流氷群の内に失くしたままなのに、春の身体は成長を急ぎ過ぎる。空へ空へと私の影が伸びるほどに、弛みはじめた汀は遠く離れてゆき……〈私〉自身が、あの大きな指の持ち主となった。
薄氷の絶命の跡つづきをり 宇佐美友海
地上を遠退きながら見渡せば、内陸はうっすらと濡れて広がる。無数の薄氷が、そこに破れて、溶けて、果てた跡。あなた方は、そちらの方角へ逃げてはいけなかった。絶命の地平が果てもなく続く。
寝室に一つ灯れるヒヤシンス 宇佐美友海
目覚めると、未明。寝室には、ヒヤシンスの水耕栽培のポットが一つ。暗がりの花よりも、蒼白い根が水中に発光するようにして目につく。夢の記憶は遠く朧げにして、どこかひんやりとした心地に目覚めた。
平日のまんなか春コート泳ぐ 宇佐美友海
平日のまんなかは、〈私〉の日々の真ん中の時間だ。春の忙しい日々ながら、今はどこかほっとしている。明るい色のコートの裾が風に泳ぐと、かつては鰭を持つ生き物に憧れていたような気がした。
山笑ふどろりと眠くなる頭 宇佐美友海
しかし、生きることに春の憂いはついて回る。それは、頭蓋の中に脳をどろりとさせるようだ。嫌に浮かれた色の春の山は、文字通りに笑って見える。〈私〉が求めるのは、この温く粘つく眠りではないのだが。
成人の背中の産毛おぼろ月 宇佐美友海
生きて成人と呼ばれるまで伸びた身体。心の幼さに比べれば、時に持て余す身体。その背中を覆うであろう産毛は、いま朧を孕み、濡れ光っているだろうか。ふたたび肉体を離れる夜を予感する。
黄水仙へその真上に手指を組む 宇佐美友海
ひとりの儀式がはじまる。水をみたしたポットに黄水仙を浮かべ、その灯を頼りに、ふたたび北溟の銀河へ向かおう。眠りの中に冷たく冴えた夢を求めて、この白く細長い手指が、たとえば黒く重たい鰭に変わるまで。
表題『背中』。それは自身ではけっして直視できないところ。この一連の句のほとんどが、主体者の視座を定めづらい。しかし、その揺らぎこそがこの一連を感受する方法と仮定してみる。そして、揺らぎに視座を委ねる様にして読んだ。
また、この一連を通して一句一句は幻想とも実景とも取れるのだが、それらを均してみれば夢うつつの気分が横たわって感じられた。目覚めて空想することは作為だが、対して眠りの中に見る夢は不作為だ。夢は制御できず、あちらから迫って来さえする。よって、夢の記述には破綻が表れる。
作中の〈私〉は、気づくと夢の中に居り、覚めてのち、ふたたび夢へ帰ろうとする。(と、筆者は読んだ。)
冒頭、夢の中の「銀河の果て」とは、天の川銀河の遥か中心部を基点に観た時に、私たちの魂が揺蕩う彼岸か。対するならば、目覚めてのちの「平日のまんなか」とは、実社会における生活の日々そのものだろう。その「平日」と、もう一つ「成人」という堅い語による把握は、詩語によらぬ通俗のリアリティによるものだ。二つは一連の中にあって違和感だったが、それ故に象徴的と思えた。
冒頭の「パイプ椅子」こそ詩語に近く、夢の世界には相応しく、一連の内にシュールに据えられているように思える。作中の主体者である〈私〉を北溟の海獣の身体に憧れる者と仮定すれば、「パイプ椅子」とは、人たることを望まぬ〈私〉が在るべき処ではないのだろう。
冷たい水の属性として〈私〉なる者を定め、世に当然のように横溢する春の本情に抵抗する。そうすることで、実社会において青春と呼ばれる時間の只中に在っての、実存の違和感を描いたのかもしれない。
空想的に過ぎて勝手な解釈でしたが、大変に楽しく拝読しました。
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