2007-06-10

「水に浮く」×「水すべて」を読む

「水に浮く」×「水すべて」を読む ……上田信治×さいばら天気


※以下の対話は2007年6月6日深夜、8日深夜の2回にわたり、BBS(インターネット掲示板)を利用。ログ(書き込み記録)を微調整して記事にまとめました。
樋口由紀子「水に浮く」・齋藤朝比古「水すべて」はこちら↓です。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/77.html




第一夜


信治::樋口さんの7句、朝比古さんの7句、一句ずつ見ていると、川柳であることと、俳句であることは、「入れ替え可能」なように思えるんですが、それぞれの7句をかたまりで見ると、やっぱりジャンルの特性みたいなものも見えてきて、何度見ても飽きないですね。

天気::おそらく、という前提付きですが、樋口さんはご自分の作句について「俳句ではなく川柳」、もっといえば、「他の何物でもなく川柳」という覚悟のある作家だと思います。朝比古さんは、裏返しに同様に「他の何物でもなく俳句」という原則の揺るぎない人。その意味で、信治さんのおっしゃる「ジャンルの特性」があらわになるのかもしれません。
もっとも、私自身、川柳というものに不案内であることを、まず、ことわっておかねば。
そんなたぐいの蛮勇を奮おうということなんですね、この企画は。

信治::じゃ、蛮勇、いきます。樋口さんの一句目。〈肉親は姿勢正しく水に浮く〉。この句の川柳だなあ、(というか俳句と違うんだなあ)と思うところは、「~ということを、言っている」という感触があるところです。
もひとつ踏み込めば、「誰かに向けて言っているかのように、言っている」感じですね。
こういう感触って、あまり、俳句にはない気がします。

天気::浅はかな知識で言えば(どなたかが叱ってくださるでしょう)、川柳には「批評」の要素があるといいます。この句などは強くそれを感じます。それを少し発展させれば、信治さんのおっしゃる「誰かに向けて」ということになるのかもしれない。
ベクトルをもつということ。批評のベクトル、誰かに向けて発せられるベクトル。そのベクトル(特に前者ですが)と、読み手であるこちらのベクトルがぴたりと合ったとき、俳句にはあまりない爽快感があるのかもしれません。
ただ、ベクトルというからには、別の方向もあり得る。私などは、この句を読んで、なぜ「姿勢崩して」じゃないんだろう?という連想も働きました。それは、読む喜びを阻害するものではなくて、楽しい「反論」なんだけれども。

信治::むちゃなことを言い出すという芸風は、俳句にもあるんですが、樋口さんの場合、無茶なことを言うというポーズに風情があるとかじゃなくて、より直球というか、ほんと、無茶なこと言いたくて言ってる感じがするんですよね。
「ひとりごと、つぶやき」なら、何を言っても、おじさんがまた、何言って、ってかんじですけど「言明」だから、どきっとさせる、というような、かんじでしょうか。〈肉親は姿勢正しく水に浮く〉(反論があったらどうぞ)って。

天気::肉親は姿勢正しく水に浮く=(反論があったらどうぞ)は、ある種、言い得て妙ですね。言明、あるいはステイトメント(宣言)というのかなあ、俳句でそれをやっちゃ野暮ったくなる。でも、川柳は、そこをうまく野暮にしない洗練をもっているのかもしれません。信治さんの「誰かに向けて言っているかのように」の部分ね。

信治::「そこをうまく野暮にしない洗練」とは、言葉のスピードじゃないですかね。すぱーんという。朝比古さんの〈水打って小さき町となりにけり〉の上五中七のあいだの、一呼吸と、由紀子さんの〈肉親は〉の切迫との、差。

天気::「言葉のスピード」という点は作家論にも発展しそうですね。それを言われて実感したのが、朝比古さんの句のおおかたに、伝え急ぎ、のようなものがないこと。句の成否にかかわらず、ゆったり伝えてくる。
ま、それはあとにするとして、川柳の、その「言明」という点に話を戻しましょう。俳句は、「ひとりごと、つぶやき」という信治さんのことばは、そのとおりでね、譬えていえば、会社で会議をしている。川柳は、というか、樋口さんの7句を読んでいると、はっきりとアイデアを出して、その場の笑いもとれる、という感じ。
ところが俳句は……これは朝比古さんの7句が、というのではなくて、なぜか一般論にしてしまいますが、「きみ、どう思う?」と上司に訊かれて、「あ、聞いてませんでした」。それが俳句。あるいは、会議そっちのけで、社長の似顔絵を描いていて、それがおもしろい、というのが俳句の領分。川柳は違う気がする。
たとえば、〈目と口が映った水は捨てるべし〉。上中は俳句にもあるモチーフ。下五に季語を入れて、「はい、俳句」ということにもなる。ところが、「捨てるべし」。

信治::そうそう。この「捨てるべし」は、最高でしょう。
俳句と入れ替え可能なのは、例えば、〈鏡台を動かし水を確認する〉。これなんか、櫂未知子だって、文体としてはこう書くかも知れない(無季だけど)。でも、川柳の文脈におくと、これも、言明、「確認するのだ、私は」と、聞こえてきます。

天気::〈鏡台を動かし水を確認する〉からは、水にまつわる隠喩の体系の巧い〈はぐらかし方〉を感じました。鏡=水という詩的連関に向かって、ぐいっと動かして(それも鏡台という身も蓋もなく日常的なものを)、確認する、というのですから。
樋口さんの7句は、水という存在(というより語か?)に対して、戦略的にアプローチしていると感じました。そこのところがさすがだな、と思ったのです。
「水」というものが、言説(あるいは詩)のなかに置かれる脈絡のようなもののバラエティが出ている。1句目と7句目の「浮く」のあいだの5句が、幅広いんですね。領域、水の物理的な動き、鏡、音、ふたたび鏡。

信治::戦略的アプローチ、言われて気づきました。みごとですね。
川柳はきっと、俳句にある、俳句的「よろしさ」みたいなものを前提にしないので、より、一句一句の立ちどころに、意識的にならざるをえないんじゃないでしょうか。
対して、朝比古さんのは、俳句の水のイメージアーカイブで、遊んで、それで、十分楽しいってかんじ。あ、ちょっと。俳句的「よろしさ」といってしまうと、ぬるいですね。「共通項」というか、「入り会い地」というか、まあ、ようするに「場」ですね。

天気::アーカイブ。言い換えれば、俳句的伝統。それとの距離というか、参照のしかたの如何が、作家性にもなってきますよね。

信治::その「俳句的伝統との距離、参照のしかたの如何が、作家性」という部分、朝比古さんを論じるため、みたいな論点ですね。おもしろい。小野裕三さんが、朝比古さんのことを「俳句に嫉妬する俳人」て書かれていたじゃないですか(編註:『豆の木第11号』所収「向こう岸の男 齋藤朝比古小論」)。ぼくは、あれ「俳句に 憧れる俳人」という意味だったら賛成です。
俳句に対する、手放されることのない「よそもの」感が、きっとあるんだと思います。それと、たぶん「心太」や「浮いてこい」「撒水車」に対する、好きさ加減に、朝比古さんだけのものがあって、それが、季語や、俳句的情緒に、ずぶずぶにならずに遊ぶことを可能にしてる。
だから、川柳7句と並べて、ぬるくないんだと思います。

天気::私は、朝比古さんの7句だと、奇数目の句(1句目、3句目、5句目、7句目)はアーカイブ(俳句のもつレガシー)に近すぎる感じがします。偶数目の句がおもしろい。〈ポエジーのポの顔をして浮いてこい〉は、機知に力が抜けている。〈水打つて小さき町となりにけり〉は、解釈がむずかしいですが、意味より空気を伝えてくる。〈水すべて撒いてしまひし撒水車〉は、絶賛します。

信治::「水すべて」では〈撒水車〉っていうところに、俳人のココロイキを見ます、ぼくは(笑)。朝比古さんは、俳句「的」なもの大好き、って言えちゃう人だから、きっと。
あと〈浮いてこい〉が、季語とすると、名詞だけど、ふつうにとれば命令形じゃないですか。これ、ぜったい、趣向だと思うんですよ。名詞ととれば、俳句だけど、動詞と取れば川柳になる、という。で、きっと朝比古さんにとって、川柳って〈ポエジー〉なんじゃないか、と。少し、それましたが。

天気::はい。〈浮人形〉じゃなくて〈浮いてこい〉ね。これは戦術でしょう。川柳=ポエジーの意識は、すこし穿ちすぎ、とは思いますが。
朝比古さんは、「浮いてこい」の使用頻度の高い人だと思います。この季語は、朝比古好みなんです、きっと。

信治::なるほど。「浮いてこい」、いい季語ですね。「撒水車」と同じで、詩語じゃないんだけど、使うだけで俳句ワールドです。
俳句も川柳も、放たれるものとしては同じだけど、俳句は、多く「場」に向けて放たれ、川柳は、あらかじめの場のないところ、虚空っぽいところにむけて放たれて、だから、直接、読者にむかう、みたいなことが言えそうです。これは、ひょっとして、アチラの世界では常識でしょうか。

天気::その対照、俳句=場に向けられる、川柳=虚空→読者、はかなり説得力があるような気がします。川柳の「入会地」「レガシー」は、どうなんでしょう? 興味深いところです。

信治::朝比古さんの7句だと、〈また同じ本数突かれ心太〉、わりと、好きです。なんか、「ああ、がっかり」みたいなかんじがして。まったく、それは、言い方だけから発生する「まぼろしの感情」なんですけど。



第二夜

天気::「俳句ワールド」という語から始めましょうか。〈浮いてこい〉〈撒水車〉。朝比古さんは、こうした「俳句ワールド」のキーワードの使用に長けた作家、という見方をしているんです。長けた、というのは、筋がいい、素性がいい、という感じです。てらいなく、かといって、浸りきるのではなく。
そのへんは、信治さんの指摘、「季語や、俳句的情緒に、ずぶずぶにならずに、遊んでる。」につながるわけですが。

信治::「俳句ワールド」ていうものがありますよね。既存のイメージの蓄積であり、了解項であるような、ガス状の中心地帯が。川柳の人から見ると、そんなものを使うのは、ずるいと思われるのではないでしょうか。
「俳句性」でもいいんですけど、それだと、俳句に内在するみたいになっちゃうんで、「俳句ワールド」。

天気::もうすこし言ってしまえば、俳句のしつらえてくれた虚構とのつきあい方がうまい。朝比古さんが俳句研究賞をとったとき、私はブログで、「カメラの句が素晴らしいが、朝比古さんは、カメラを実際に見たり触ったりしているわけではない。知っちゃいなくても、句にしてしまうのだ」と、好意と賛意をもって書きました。その脈絡で言えば、「浮いてこい」も「撒水車」も、見ちゃいない。でも、「だから、どうした?」というのが私の立ち位置です。実際に見て、つまらない句を詠むより、見ずに、おもしろい句を詠んでくれ、という立場。虚構についての理解力のある作家が、私の好み、というところがありますね。

信治::「俳句のしつらえてくれた虚構」、これは、いい言い方をしていただきました。落語好きの人はよく「落語国」なんて言い方をしますが。俳人は、みんな打ち水で涼しくなる世界に生きている。俳句にあらわれる食い物は、旨いもの、とか。

天気::「川柳ワールド」というもの。もしあったとしても、俳句の場合とすこし違う気がします。
「俳句ワールド」は、価値とかそんなものではなく(価値と反価値の併存)、イメージという前提を明確にしたうえで話さないといけないですが…。ディズニーワールドが、ワールドの実体ではなく、イメージのワールドを箱庭化しているのと同じで。
もっとも、俳句の「虚構性」については、「まったく首肯できない」という俳人も多いと思います。

信治::あ、そうか。だから「価値ではなく」と、留保がつくわけですね。
ただ、あれですね、俳句を知ってしまうと、言葉がもう無色ではありえない。摂津幸彦の句だって「野を帰る父のひとりは化粧して」の「野」は、やっぱり「野分」や「枯野」の「野」だろうと、思えてしまいます。やはり、俳句を知っている読者にむけて書く、という無視できない側面が俳句にはあるような気がします。
川柳は、なんだろう、同時代精神にむけて? いや、精神といわずとも、同時代の不特定多数の読者を前提としているような気がします。

天気::私も、そう想像しています。その意味で過酷だと思っています、川柳は。
俳句は、俳句ワールドに凭れかかろうと思えば、どこまでも凭れられる。句の如何にかかわらず。

信治::凭れかかる、とは、季語になっている事物を「佳きもの」とする、とか。自然を「佳きもの」にする立場は、ちょっとあやういものがありますね。(俳句を「言霊」とか「誉めうた」として立たせようという考えには、ちょっと関心もあるのですが)
ともかく、大半の俳句作者には、歴史性への接続を求める心性がある気がするのですが、川柳は、横に、同時代に行くのかもしれません。

天気::そうなんでしょう。ざっくり言えば。
ただ、私と信治さんは、川柳に不案内ですから、初歩的の把握を確認しあっているに過ぎない危険性があります。歴史と時代、同時代、このへんのことは、すでに数百倍精緻に論じられている可能性が高い。

信治::おおお、そうでした。ゆるゆる、いきましょう。

天気::俳句はノホホンと口をあけて、五七五やってれば済む業界ですが(それだから、やっているのですが)、川柳の世界はそうではない、と思います。私らにも、割って入れる隙間のような話題を狙いましょうか。そうでなければ、ボケて、笑いをとるとか……。たとえば、樋口由紀子氏における〈尼崎〉性について、とか。信治さんは、東国出身ですか?
尼崎の尼崎たるところ、って、なにか、とっかかりはありますか?

信治::ぼくは郊外そだちで、子供のころは、東京と、大阪と、行ったり来たりでした。「尼崎越えたら」って、やっぱり、大阪から西のほうへ向ってるって、かんじですか。ここら、しばらく異界がつづきます、というかんじで。

天気::勝手な解釈ですが、尼崎を越えたら、尼崎じゃない場所だという(笑)。西でも東でもなく。尼崎は、やはりスペシャルな場所、ということで…。ちょっと話がそれますが、毛呂篤という、とんでもない俳人が尼崎の人です。

信治::それにしても、朝比古さん、トップバッターは、なかなか絶妙でしたね。朝比古さんの句は、日本語が分れば、味の部分までよく分る。そこは、川柳と同じで、同時代・不特定多数の読者に開かれてるんだけど、やっぱり、すごく対照的で。

天気::樋口さん・朝比古さんでこの企画のスタートを切れたのは「週刊俳句」にとって幸せでした。こんなところでしょうか。「水」2作品を、無謀にも、こうして語ってきたわけですが。

信治::なんか、いろいろ、この試みから、俳句を照らす論点がありそうです。
「俳句ワールド」と言いましたが、ようするに季語ってことですかねえ。季語が担保している、俳句性、俳句っぽさみたいなものを、俳句はものすごく前提としているのだ、ということを再確認しました。



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