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2014-08-10

俳句の骨法 齋藤朝比古句集『累日』 三島ゆかり

俳句の骨法
齋藤朝比古句集『累日』

三島ゆかり


『豆の木』第18号(2014年4月)より転載

どういう訳か齋藤朝比古さんのことを考えようとすると「俳句の骨法」という言葉が頭をよぎる。多分朝比古さんが誰か別の人の作品に触れて「俳句の骨法をよく理解した上で独自の…」みたいなことを書かれているのを偶然読んで印象に残っているのだと思うが、いま確かめるすべはない。すべはないのだが、とにかく私の脳の中では齋藤朝比古→俳句の骨法という条件反射ができあがっている。私は朝比古さんの伝記的な事実はほとんど知らないので、単に書かれた俳句作品を読みながら、俳句の骨法とはなんなのか考えて行きたい。句集は数年ごとに六章に分かれているが、句柄の変遷があるわけでもなさそうなので、章立ても無視して拾ってゆきたい。


1 目の焦点をずらす

俳句というのはもしかしたらある種の宗教かも知れない。スピリチュアル小説のジェームズ・レッドフィールド『聖なる予言』には、しばしば目の焦点をずらしてエネルギーを見る場面がある。それをエネルギーだ、オーラだと語ると危ない人だと思われたり、友人を失ったりしかねないが、俳句の場合はどうだろう。その見えようを「発見」として称揚し、「新鮮な驚き」としてありがたがっていたのではなかったか。たぶん宗教家が修行を積むように、俳人も修業を積んで骨法を獲得するのだ。普通のことが普通に見えているうちは俳人にはなれない。

ひとつづつ影を増やして雛飾る

雛壇に雛人形を飾るとき、おのずと雛人形の影も増える。まったく当たり前のことで、実社会ではなんの役にも立たない。もし子どもがそんなことを言ったら「馬鹿なこと言ってないで勉強しなさい」と叱られるのが関の山だろう。ところがひとたび俳句形式として作品に定着させるや否や、それは発見として読むものの心を捉えて離さない。まさに俳句の不思議である。「影」としか書いていないことによって、見えてくる溢れる光。言外のはかなさ、作中主体の屈託。

鬼やんま頭運んできたりけり

生物が移動するさまを捉えて、その身体部位を運んでいるとはふつう感じない。これも修行によって到達した極意だろう。そしてそう書かれたとき、読者は改めて鬼やんまの異形に思い至る。ある種の俳人の目の焦点は確かにずれているのだ。そしてそこで見えたものは、誰もエネルギーとかオーラとか呼ばないけれど、俳人という共同体の中では、もっとも尊ばれるべきものなのである。


2 言葉を遊ぶ

言葉の中には、語源的にさらに要素に分解できるものがある。多くの場合それをいちいち分解して用いることはないのだが、なにかの拍子にその要素が急にメッセージを主張し出すことがある。そうしたメッセージを鋭敏に捉えることも修行のひとつだろう。

北窓を開けば北を向いてをり

唖然とする。そりゃそうだ。単に諧謔と呼ぶのとも少し違うだろう。これは氷山の一角に過ぎず、作者は複合語を見ると、これは俳句にならないだろうかといちいち分解しているのではあるまいか。

風花の風なくなつてしまひけり

こちらはたまらなく切ない。でもそれが風花というものなのだ。単にリフレインと呼ぶのとも少し違うだろう。歳時記に載せて人類が続く限り伝えてもらいたい句である。


3 脱衣

章の見出しとしてもっと適切なものがありそうだが、朝比古句には脱衣の句が多い。もののありようが変わるとき、そこに変わるものと変わらぬものを見出す、という試練をおのれに課しているかのようである。

マフラーをたためば重さありにけり

巻いているときには感じなかったマフラーの物質としての重さが、たたんでみると忽然と感じられる。その意識の変化の不思議さをさらりと捉えている。

セーターを脱ぎてセーターあたたかし

同工であるが、体温という陶然とするぬくもりに対する根源的な嗜好が、リフレインという作句技巧をまとって表現されている。


4 手品

朝比古句には、ときどき手品に騙されるようなものが混ざっている。読みながら、騙されてはいけない、騙されてはいけない、と過剰に反応し、論理的な正当性を検証したくなるような句だ。

脱いで着て脱いで水着になつてをり

またしても脱衣である。何か騙されているような気がするのだが、実際に水着に着替えるプロセスを検証すると、確かにこうなのだ。水着の上に、脱ぐためのものをわざわざ一枚着る人類の習性。それを「なつてをり」と詠む作者の立ち位置は動物行動学者
視線だ。

ふらここの影がふらここより迅し 

手品系の最たるものは本句だろう。最初これはうそだと思った。円弧を描くふらここの方が平面上を直線運動する影より大きく移動するのだから、本当はふらここの方が速いのでは、と。大きく移動する分、ほんものは明らかに遠回りして感じられ、その分遅く見えるだけでは、と。でもよくよく考えてみると、本当に影の方が速い場合がある。

ふらここの軌道を半円とし、ふらここが一番下がったとき地面に接し、太陽は左上45度の無限遠点にあり、ふらここが左から右に進み、半径rとする。


最初に思ったのは、影は2rしか進まず、ふらここは2πr/2進むのだから、どう考えたってふらここの方が速いではないか、ということだった。が、よく考えると、起点からふらここの軌道が太陽光線と接する下図のBの位置まで、影は逆に左へ進む。ふらここがBを過ぎると影は右に進むようになる。そして、影は最下点から2r右に進む。影が最下点から2r右に進む間、ふらここは半円のさらに半分を進むので2πr/4=πr/2移動する。2>π/2なので、影の方が速いのである。


5 フォーム

齋藤朝比古といえば有季定型である。が、そこに一途な重みや悲壮な決意のようなものは感じられない。むしろ、優れた変化球投手がどんな球種でも同じフォームから繰り出すことができる、そんな飄々としたイメージを感じる。落語家は自分が笑っちゃいけない、とも言い換えられるか。そのようにして、ぬらりひょんと焦点のずれた句や言葉遊びの句や手品のような句が、まったく同じフォームから繰り出される。結局のところ俳句の骨法とは、五七五のことなのである。


2014-03-23

斎藤朝比古 鈍器 10句

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週刊俳句 第361号 2014-3-23
斎藤朝比古 鈍器
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10句作品テキスト 斎藤朝比古 鈍器

 鈍器   齋藤朝比古

縦四方固めのやうに雪残る
甘噛のさせ放題や春炬燵
鳴かぬ虫ばかり穴より出で来たり
春昼の部屋に鈍器の二つ三つ
卒業の日の樹の幹に触れてをり
兄弟の無くて従兄弟やあたたかし  
墨東にゐて蓬餅日和かな
朧夜の靴待つ家へ帰りけり
銀ブラのブラはブラジルうららけし
滲みゐる終着駅の春灯


2014-03-02

絶妙な言い足りなさ 齋藤朝比古『累日』の一句 上野葉月

絶妙な言い足りなさ
齋藤朝比古『累日』の一句

上野葉月


句集を読む習慣のない私ですが、休日にアニメサイトで日がな一日アニメを見たりするとさすがに気分を変えたくなって句集を手に取ることもまったくないわけではない。

秋刀魚からしたたるものの爆ぜにけり  齋藤朝比古

俳句を始めた当初から句座を頻繁に囲む句友に齋藤朝比古のような押しも押されもしない本格派と目される俳人がいたことは幸運なのか不運なのかよくわからないと時折思ったりもする(ここまで書いてきてやっぱりどちらかと言えば幸運だというところに至るけど)。

まさか海で泳いでいる秋刀魚から何かしたたっているわけではあるまい。当然、食卓にのぼる直前の秋刀魚である。

私のような読者にはこういう消費者的な季節感が理解しやすく思える。

歳時記を眺めていると生産者側と言ってよさそうな季節感が横溢していてクラクラするような気分になることがある。もっとも七十年前は日本人の90%超が第一次産業に従事していたのだから不思議なことでもないわけだが。

水道の蛇口をひねることすらなくボタン操作だけで洗濯が終わってしまう人間にとって四季の移ろいは70年前の人間に比べればかなり限定的なものだ。

消費にのみ従事し今後も生産的な生活を送らずに一生を終えようという人間の季節感しか持たない自分を今更後ろめたく感じているわけではない(なんだか苦し紛れ、というか嘘だな)。

さて「したたるものの爆ぜにけり」、「もの」という言葉は俳句や詩にあまり向いてないと思うのだが、この「したたるもの」はおそらくこの表現しかあり得ないという説得力をもって迫ってくる。

火とか煙、あるいは焼くとか料理、内臓、脂という言葉を使わず、秋刀魚の爆ぜる様子が人の五感をどのように刺激するか一瞬にして想起させる一句。にも拘わらず絶妙な(ほんのわずかな)言い足りなさのようなもの。これが俳句の力か。

2013-10-27

俳句の逆説 齋藤朝比古句集『累日』を読む 小野裕三

俳句の逆説
齋藤朝比古句集『累日』を読む

小野裕三



この作者の実力からすれば、遅すぎたと言っても過言ではない、待望の第一句集。朝比古氏について実は僕自身、何度も文章を書いてきて(『豆の木11号』所収の「向こう岸の男」、『俳コレ』所収の「ユートピアの骨法」)、そのことの繰り返しにはなるのだが、逆に言えば長年にわたって僕の中でまったく揺るがない確信とも言えることがある。それは、朝比古氏の俳句にこそ、俳句全般の未来を照らすようなもの、俳句の持つ可能性の最先端の部分、そういったものが強く感じられるということだ。数多くのすぐれた才能を輩出してきた俳句研究賞が、朝比古氏の受賞をもってその歴史を閉じたというのはある意味で象徴的でもあり、あたかも俳句研究賞は俳句の未来を朝比古氏に託すかのような形で終焉した。

そんな朝比古氏について、師である石寒太氏が本書でこんなことを告白している。朝比古氏が初めて句会に現われた時、その句を見た瞬間に「あっ、この人は、俳句には向いていないな」と感じ、そして「きっと一年くらい以内に辞めていくだろう」と思ったのだという。そしてその予感は、ある面では当たっていた。寒太氏いわく、「その後、数年間の彼は、相変わらず同じことの繰り返し」で、「ほとんど句会では無点句ばかりの歳月が過ぎた」。まさに最初の予感のとおり、俳句に向いていないという状況が何年も続いたのだ。しかし、その後の展開がなんとも面白い。「普通の人なら、いつの間にかこのあたりで消えていくのが常なのである。が、よほど俳句が気に入ったのか、仲間が楽しかったのか、その両方なのか、いつも休まずに来て、いつの間にか句会の中心になっていった」。

このくだりを読んで彼の人柄を知る僕としてはなんだかにんまりしてしまった。朝比古氏とは確かにそういう人物である。俳人としての彼の特徴として、とにかく俳句を愉しむという姿勢に徹していること、そしてそのことにも繋がるのだが、貪欲とも言えるほど多くの句会に参加すること、がある。もうだいぶ以前の話だが、「豆の木」の吟行旅行でご一緒した時に、実は他の句会を二つ休んでその吟行に参加しているとのことを彼から聞いて、その“句会三昧”ぶりに驚いたことがある。

そんな朝比古氏は、「連衆」という言葉もよく口にする。句会という座を一緒に愉しむ仲間たち。彼が語る「連衆」という言葉には、特別な思いが籠っているようにも聞こえる。彼が「連衆」と語る時、そこには不思議と何か活き活きとした血が通っている。朝比古氏は、俳句が座の文芸であるという歴史的な事実を、もっとも明快な形で生きている現代俳人のように思える。

それとさきほど引用した寒太氏の評でもうひとつ、なるほどとあらためて思った部分がある。それは最初数年間の彼の作品が「同じことの繰り返し」だった、というところ。実は彼には、同じ言葉の繰り返しを意図的に織り込んだ佳句が多い。

  サングラス砂を払ひて砂に置く

  ふらここの影がふらここより迅し

  毛糸編む毛糸説得するごとく

同じものはあくまで同じものであってそれ以上でもそれ以下でもなく、従って普通の人はそこに格別な差異を見出そうとはしない。ところが彼はその同じものの中に確かな差異を見出す。そしてそれこそがまさしく、俳句作品にとっての発見となる。一句の中で見られる彼のそのような性向は、実は彼の俳句作品全体を通じても言える特質で、繰り返しのような単調な平凡さの中に、はっとするような差異や発見を掴みとる。ひょっとすると、最初の数年間における「同じことの繰り返し」の中で、彼はそのような感性を研ぎ澄ませていったのかも知れない。

しかし思えば、俳句が足を置く基盤とはまさにそのような場所でもある。多くの人にとっての日常生活とは、単調な出来事の繰り返しでほとんどが埋め尽くされる。劇的なドラマが次々と待ち受けるような興奮に充ちた毎日を過ごす人もいないわけではないだろうが、決して多数派ではない。多くの人は、平凡に生き、平凡に笑い、平凡に泣き、平凡に楽しみ、平凡に悲しみ、そして生涯を終える。よくもわるくも、これは世の中における真理だ。

そして俳句とは、この普遍的な真理に眼を向ける文芸でもある。「同じことの繰り返し」に確かな差異を発見する朝比古氏の視点は、「同じことの繰り返し」に終始するかのような日常生活の中に、そしてまさにその中に、鮮やかな生命の躍動を発見する。

  ふるさとのいつもの場所の蠅叩

  部屋ひとつ余す暮しや夏の月

  自転車にちりんと抜かれ日短

  縁側へ居間へ仏間へ西瓜かな

平凡な日常の繰り返しの中にこそ、もっとも鮮やかなものがあるという逆説。その逆説こそが俳句の核心であり、そして俳句の持つ大きな可能性のヒントであるとするなら、朝比古氏の俳句こそはもっともよくそれを体現するものと言える。

  イエスゐるやうにラグビーボール置く

  切るやうに手を入れてゆく泉かな

それにしても、これらの句に見られる輝きはどうだろう。奇を衒うでもなく、特殊な言葉や特殊な光景を詠むでもなく、それでもその句からは見たこともない活き活きとした光が放たれる。前衛だ伝統だといった議論が一気に遠く色褪せてしまうくらい、その光はオリジナルな新しさで充たされている。だからこそ、もう一度繰り返して言いたい。平凡な日常の中から俳句の言葉によって解き放たれたこの輝きこそが、まごうことなく俳句の未来を、その可能性を照らしていくはずだ、と。

ともあれ、彼と多くの句座を共にさせてもらった「連衆」の一人として、そして俳句の愉しみやその輝きを教えてもらった者の一人として、朝比古氏のこの第一句集の上梓を心からお祝いしたい。


齋藤朝比古句集『累日』(2013年9月25日/角川書店)

2012-02-05

齋藤朝比古 大階段 7句

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週刊俳句 第250号2012-2-5

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2009-06-28

齋藤朝比古 借り物 10句



週刊俳句第114号 2009-6-28 齋藤朝比古 借り物
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2008-06-15

齋藤朝比古 縫目


週刊俳句第60号2008-6-15 齋藤朝比古 縫目
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2007-11-18

いい噺・いい芸 齋藤朝比古×さいばら天気

いい噺・いい芸  週俳、落語会に出かける  齋藤朝比古×さいばら天気



「おめでとうございます。抽選の結果……」。ある日、こんなメールが届いた。よくあるスパムメールではない。落語会への招待である。

ことの経緯はこうだ。過日、「ラジオデイズ」というサイト(記事末尾にURLほか)から相互リンク申し出のメールが、『週刊俳句』の連絡先である私のアドレス宛てに届いた。サイトを拝見すると、「声」と「語り」のダウンロードサイト、とあった。いわゆるネットラジオの範疇と解していいのだろうが、音楽でなく「声と語り」というところが特徴だ。

なぜに『週刊俳句』が『ラジオデイズ』のような本格的なサイトの目に止まったのか不思議だが、ラジオ愛好者の私は、喜んでリンクを貼らせていただいた。ラジオデイズのリンクは、週俳「俳句関連リンク集」の一番下にある(俳句に範疇化するわけに行かず、この位置になった)。

その『ラジオデイズ』が催している落語会に、相互リンク先から毎月10名を抽選で招待しているとのことで、週俳がその抽選にみごと当たったというわけなのだ。嬉しい。

本来なら、週俳読者からに希望者を募るべき筋合いのものだが、残念ながら日数にその余裕はなかった。落語会の日時はすぐそこまで迫っていた。そこで、「役得」として私が出かけても糾弾は受けないだろうと都合よく解釈。ひとりではなんなので、俳句業界随一(と断定)の落語通・落語ファンたる齋藤朝比古さんをお誘いした。

早速の返信メールには「おお、柳亭市馬。いいですなぁ。ご相伴に預かりたく」と、さすが、なんだか噺家っぽい。

その夜が来た。会場は東京・四ッ谷駅近くの「コア石響」。こぢんまりした会場で落語会が始まった。演目と演者は次のとおり。

道 灌   三遊亭王楽
親子酒   桂平治
締め込み  柳亭市馬
 (中入)
目黒の秋刀魚 柳亭市馬
お血脈    桂平治

いやあ、堪能いたしました。終わると9時半。それでは食事でも、と雨の降り出すなかを四ッ谷駅方面に戻る。



朝比古(以下、):市馬、やっぱりいいなあ。

天気(以下、):ほんと良かった。いいものを見せてもらいました。平治はまた対照的な芸風で、市馬と平治の組み合わせは、なかなかでした。市馬ははじめて聞いたのですが、昔からこんなにいい噺家?

:ここ数年ですね。もとから上手だったんですけど地味だったんですよ。でも、この数年、いいですね。

:落語はいまテレビでかからない。朝比古さんは足を運んで聴きに行っているわけですね?

:独演会や二人会といった、いわゆるホール落語。それから寄席。鈴本演芸場(東京・上野)、浅草演芸ホール(東京・浅草)、新宿末廣亭(東京・新宿)、池袋演芸場(東京・池袋)。

:きょうは、客席50~60といったところ。

:すごく贅沢でしたね。ちょっとした御座敷くらいの人数。湯島に黒門亭(*1)という小屋があって、そこは座敷。毎週末、真打ちが4人出て、1000円と安い。基本的にはネタおろしを演るんです。練れていない噺も出る。

:落語は、どのくらいから聴いてるんですか?

:ほんとに好きになったのは高校生のとき。大学に入ったら、落研に入ろうと思ってたんですよ。でも、入学してみると落研がなくて。

:贔屓だった落語家は、やはり(古今亭)志ん朝ですよね。朝比古さんの「朝」は、志ん朝の「朝」を貰ったというくらいだから。

:ええ。志ん朝ですねえ。それから(立川)談志です。当時ね、フジテレビの深夜に「落語のピン」という番組があって、それにハマりましたね。談志がトリ。あとは(春風亭)小朝とか当時の若手。1年もたずに終わっちゃいましたけど。それから(春風亭)柳朝は、ぎりぎり間に合わなくて伝聞や録画。その3人と(三遊亭)圓楽とで「四天王」だったわけですが、圓楽は私、いまひとつだった。後半は(月の家)圓鏡(現八代目橘家圓蔵)が柳朝に替わって割って入ってきちゃって……。

:私は、朝比古さんとは世代がすこし違うから、(桂)文楽、(三遊亭)圓生は見ている。といってもテレビですが。それと関西だったから、桂米朝、笑福亭松鶴、桂小文枝(現文枝)、桂春団治(三代目)。

:ああ、関西はそうですね。私は、圓生はぎりぎりかな。亡くなったのが中学生のとき。たしかパンダと同じ日で(*2)、新聞にパンダの死亡記事は一面にデカデカと載って、圓生のは小さかったという…。それがけっこう落語でネタになってますよ。

:ああ、なるほど。パンダに負けたと(笑)。


落語と俳句をつなぐもの

:そこで落語と俳句なんですが、むりやり「週刊俳句」向けに持っていく(笑)。共通点は?

:まず、師匠と弟子という関係。これが同じですよね。

:なるほど。朝比古さんだと「炎環」所属だから、石寒太さんの弟子。

:誰か「小寒太」という俳号でやんないかな、とかね(笑)

:跡目争いが起きませんか?(笑)

:どうでしょう。

:俳句で、それやるとおもしろいけど、ややこしい。四代目高浜虚子とかね。

:季節感を大事にするという点も、共通してますよね。

:きょう聞いた「目黒の秋刀魚」は典型ですね。お殿様は「紅葉狩」に行くし。「親子酒」はやはり寒くなってくる頃がいい。

:それと、制約のなかでやってるという点も、似てる。落語は同じ噺をどうやるかで、噺家の技量や個性が問われる。俳句も、同じ季語を使って詠んだりするわけだから。

:決まり事を守りながら、どんな芸を見せるか、ということですね。

:俳句は、根本は「芸」だと思ってる。100パーセント「芸」とは言いませんが、「芸」がないと、俳句はつまんない。

:俳人は「芸風」で語られることになる。

:「作風」という言い方もいいけど、「芸風」で語る俳句もあっていいと思いますね。

:作風と芸風は、同じことのようにも思える。私なども、「作風」というと恥ずかしいので、「芸風」と言ってしまう。

:その感じ、わかりますよ。「作風」と言われるのは、すごくうれしい。でも、自分で言うのはこっぱずかしいから、「芸風」と。

:芸風は、変わりますか? 朝比古さんは芸風が変わらないふうにも見える。

:頑なかもしれない。

:でも、最近、別路線、別の芸風を試しているのかな、と思える句がある。

:そうですか。自分ではわかんないですね。自分では変えてるつもりはない。

同じ種子からジャングルへ

:落語も俳句もつくりごとですよね。ところが、そのおもしろさと思うのは、例えば物語や小説を味わうのとは、すこし違う。落語の場合、噺の筋は知ったうえで聞いてるわけですから。なにか細部の感触みたいななものを体感している。古典落語を聞くとき、べつに時代劇を聞いてるわけじゃない。噺のなかで展開されていることに、噺の設定を超えたリアリティがあるから、おもしろい。

:なんだろうな。なにか琴線に触れるんですよね。琴線の深さとか幅だとかは人によって違うけど、芯のところがあるんだと思うんです。日本人という括りはしないけど、芯というか種子というか、そこから、こう広がっているような。

:共通の種子?

:ええ。そこから、わーっとジャングルのように広がって、いろいろなかたちになっているというイメージかな。

:それは俳句にも言える?

:ええ。芯とか種子という部分では、みんな同じものを持っている。

:じゃあ、例えば、金子兜太、夏石番矢、同じ結社の田島健一さん、例は誰でもいいんです、朝比古さんの作風、いや芸風か、それとはまったく違う芸風の句を並べたとします。どれも同じ芯、同じ種子を持っている?

:同じ。だと思いたいんです。

:ふうん。そうなんだ?

:どこかに飛んでいって、そこから生えてきた木は、別のかたちをしているかもしれないけど、種子は同じ。まあ、まったく同じじゃないかもしれないけど、まったく別物でもない。

:おもしろい譬えですね。どんな俳句も芯の部分は共通というところ、私もそう思う。

:別の言い方をすれば、種子のどこをくすぐれば、どんな芽が出るのか。そのくすぐる場所が違うのかもしれない。

:なるほど。くすぐられるのは、客であり、読者。読者のもっている種を、どうくすぐってくれるかが落語家の芸風、俳人の芸風。それだと、木は、受け手のなかに育つことになる。

:イメージですけどね。

:さっきジャングルとおっしゃいましたが、俳句が、きれいに整地された農地では退屈だと思ってるんです。ジャングルのほうがおもしろい。いろんなものが生えている。わけのわからない虫や爬虫類もいる。ジャングルだから、それこそ「俳句ゲリラ」がいてもいい(笑)。殺虫剤で虫を殺し、除草剤で雑草を刈るという行為って、どーなの?という…。

:ジャングルは、いい空気を出しますから。酸素を出しますからね。ジャングルのそばに、刈り込まれた庭があって、鉢植えが置いてあるというのも、またいい。

:そうそう。

:ボクは有季俳句ですけど、無季の句をいいと思うこともあるし。ただ、自分じゃ作れないだけで。

:読むときは、懐広く、というのは、私も同じですね。

:頭ごなしに、こういう句はダメ、という人がいるじゃないですか?

:「有季定型」以外は俳句じゃない、とか? 「俳句」と呼ぶな、違う名称を付けろ、とか?

:そう。そういう人も、いていい、と思うんです。でも、自分はそういう人になりたくないな、と思う。

:存在は認める。存在を認めないとなると、そう言ってる人と同じになっちゃいますもんね。

:ただ、すげえこと言うなあ、いまだにこんなこと言う人いるんだ、とかは思いますけどね。


「ふら」のある芸人

:落語の話題に戻しましょうか。せっかく、いい噺、いい芸を観てきたんですから。落語家にはそれぞれ芸風がありますよね。

:「ふら」って言うんですけどね。説明がつかないような、その人のもっているおもしろさ、おかしさ。「ふら」のある芸人、という言い方をするんです。例えば、このあいだ(2007年9月)父親の跡を継いで(林家)木久蔵を襲名した林家きくおは、ヘタクソなんだけど、「ふら」がある。(林家)三平(初代)の長男、正蔵(9代目。前名林家こぶ平)は「ふら」があるんです。二代目三平を襲名する林家いっ平は、ちょっと…という感じ。

:個性とは違う?

:ちょっと違う。もって生まれた感じ。生地や血統もある。東京下町生まれだとか、落語家を父にもつ、とか。まあ、見ているこちらの思い込みの部分もあるんでしょうが。

:田舎育ちはハンデ?

:市馬は大分県出身で、もともとの「ふら」がないほう。努力の人ですよね。

:その場合の東京というのは、深川の人が「東京の中心は深川に決まってるだろうが!」といった世界ですね。あるいは、深川と日本橋、どっちが中心かでケンカしてるみたいな?

:そうそう。

:「サバービア俳句」が、世田谷に昔トンボが飛んでて、というのと、ずいぶん違う東京だ(笑)。

:違いますね。

:その「ふら」というのは、カタギっぽくないとう要素も?

:それもありますね。

:カタギっぽいって、ダメですよね?

:ダメです。

:ネクタイしたほうがいいんじゃないの?という噺家は、いくら巧くてもダメ。

:芸人として愛すべき存在というか…。飲む打つ買う、やっちゃって失敗してるけど、稽古もしないで巧くもないけど、こいつは「ふら」があるからいい、といった感じ。関西でいえば、松鶴なんかは若い頃「ふら」があったんじゃないですか。

:なるほど。米朝なんかは、逆に…。

:「ふら」がなかったかもしれない。

:だから、巧くなるしかなかったとか。

:そうかもしれないですね。

:「ふら」とは別に、いわゆるキャラというのも、あるようですね。噺家によって、向き不向きがある。例えば、きょうの演目、市馬と平治で入れ替えてみる、つまり、平治が「目黒の秋刀魚」をできるんだろうか、と思ってしまう。

:シュッとした品の良いお殿様はできないでしょうね。

:その点、市馬のお殿様は抜群。逆に、市馬の「親子酒」はどうなるんだろう、と。

:あんまり良くないかもしれない。市馬も平治も、噺としては、もちろんできるでしょうけど、違うお殿様、違う親子になってしまうでしょうね。

:平治の脂っこい熱演もよかったですが、やはり市馬。びっくりしました。噺の懐が深いというか、むりに笑いをとりに来ない。こっちはゆったり噺に入っていける。それからじわっと来る。ということで、今日の結論は?

:はい。市馬は、これからも注目ということで。



(*1)黒門亭 http://www.rakugo-kyokai.or.jp/Kuromontei.aspx
(*2)圓生は1979年9月3日没。上野動物園のパンダ、ランラン(蘭蘭) はその翌日9月4日、妊娠中に死亡。

画像リンク(クリックすると画像が見えます) 
古今亭志ん朝
立川談志
春風亭小朝
春風亭柳朝
三遊亭圓楽
月の家圓鏡
桂文楽
三遊亭圓生
桂米朝
笑福亭松鶴
桂小文枝
桂春団治
林家木久蔵・林家きくお
林家三平
林家こぶ平
林家いっ平


参考サイト----------------------------------------------------------------

ラジオデイズ http://www.radiodays.jp/
「文芸の街」「話芸の街」「対話の街」に分かれ、音声コンテンツが用意されている(常時更新)。希望のコンテンツが購入でき、無料の試聴コンテンツもある。このサイトを知ったとき、早速『高橋源一郎×東京ファイティングキッズ「果たして文学は何処へ行くのか」第一回』を試聴した。おもしろいのなんのって。

柳亭市馬 公式サイト
http://www.page.sannet.ne.jp/kazzp/rakugo.htm

桂平治 平さんがゆく!
http://homepage3.nifty.com/katuraheiji/rakugo/

三遊亭王楽 さんゆうていおうらくのはじめてのブログ
http://ouraku.cocolog-nifty.com/blog/


2007-09-30

齋藤朝比古 あたらしき夜


齋藤朝比古 
あたらしき夜



雲 の 裏 明 る き 秋 の 暑 さ か な

す こ し づ つ は だ け て き た る 踊 か な

先 生 の 服 の を か し き 運 動 会

夜 学 子 へ あ た ら し き 夜 の 来 て ゐ た り

熱 気 球 音 な く 流 れ 蕎 麦 の 花

洗 車 機 を 溢 る る 泡 や 秋 高 し

標 本 の や う に 秋 刀 魚 の 喰 は れ け り

錆 色 に 並 ぶ 自 転 車 花 野 風

菊 人 形 背 中 遊 ん で ゐ た り け り

何 に で も 醤 油 の 父 や 秋 の 山





2007-06-10

「水」のあと

「水」のあと

前号「柳×俳 7×7」に登場の齋藤朝比古さんと樋口由紀子さんからコメントをいただきました。樋口由紀子「水に浮く」・齋藤朝比古「水すべて」はこちら↓です。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/77.html



齋藤朝比古

「第一回柳×俳」の俳句作家として作品発表させていただき、大変光栄に存じます。ただ残念ながら今回の「水」というテーマは私にとっては美しすぎ、力み過ぎてしまったようです。

さて、私の体たらくぶりと比較して、樋口由紀子さんの素晴らしさ。平明な措辞とじんわりと沁みてくるような詩性に畏敬の念を抱くとともに、私が川柳という形式に対して、今までなんと低い認識しか持っていなかったのかと愕然とさせられました。

  針と糸取り出してくる水芸人
  この前はセーターだった水の音

そんな由紀子さんの作品の中で、掲出2句について、これは川柳ではなく俳句ではないのか…という思いが今も頭の中を渦巻いて止みません。特に川柳と俳句を分別する必要もないのですが、川柳と俳句のボーダーとはあってないようなものという現実を肌身に感じ、とても意義深い機会を得ることが出来ました。

今回お誘いいただいた週刊俳句関係者のみなさま、拙作をお読み頂いたみなさま、そして樋口由紀子様、本当にありがとうございました。


樋口由紀子

齋藤朝比古氏の「水すべて」を読んで、あわててプロフィールを開いた。年齢を知りたかったのだ。彼は1965年生まれ、ちょうどひとまわり年下の蛇年。しかし、作品は私よりずっと大人で落ち着いている。自分の顔は見せず、感情も出していない。

彼は俳句が好きなのだと思った。俳句とはこういうものだと定義して、それを信じている。私だって川柳は好きだが、いまだに川柳とはこういうものだと定義できないでいる。どこかでまだ見出していない何かがあり、こんなものではないと疑っているので、たえず川柳に対して反発し、格闘している。

川柳は方法上のよりどころのない文芸なのかもしれない。そのためにたえず方法を模索していかなければならないので、私は私の「水」を詠もうとイライラし、ジタバタした。そこに川柳のしんどさとおもしろさがある。そんなことをあらためて思いながら、朝比古氏の俳句七句を読ませていただいた。

「水に浮く」×「水すべて」を読む

「水に浮く」×「水すべて」を読む ……上田信治×さいばら天気


※以下の対話は2007年6月6日深夜、8日深夜の2回にわたり、BBS(インターネット掲示板)を利用。ログ(書き込み記録)を微調整して記事にまとめました。
樋口由紀子「水に浮く」・齋藤朝比古「水すべて」はこちら↓です。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/77.html




第一夜


信治::樋口さんの7句、朝比古さんの7句、一句ずつ見ていると、川柳であることと、俳句であることは、「入れ替え可能」なように思えるんですが、それぞれの7句をかたまりで見ると、やっぱりジャンルの特性みたいなものも見えてきて、何度見ても飽きないですね。

天気::おそらく、という前提付きですが、樋口さんはご自分の作句について「俳句ではなく川柳」、もっといえば、「他の何物でもなく川柳」という覚悟のある作家だと思います。朝比古さんは、裏返しに同様に「他の何物でもなく俳句」という原則の揺るぎない人。その意味で、信治さんのおっしゃる「ジャンルの特性」があらわになるのかもしれません。
もっとも、私自身、川柳というものに不案内であることを、まず、ことわっておかねば。
そんなたぐいの蛮勇を奮おうということなんですね、この企画は。

信治::じゃ、蛮勇、いきます。樋口さんの一句目。〈肉親は姿勢正しく水に浮く〉。この句の川柳だなあ、(というか俳句と違うんだなあ)と思うところは、「~ということを、言っている」という感触があるところです。
もひとつ踏み込めば、「誰かに向けて言っているかのように、言っている」感じですね。
こういう感触って、あまり、俳句にはない気がします。

天気::浅はかな知識で言えば(どなたかが叱ってくださるでしょう)、川柳には「批評」の要素があるといいます。この句などは強くそれを感じます。それを少し発展させれば、信治さんのおっしゃる「誰かに向けて」ということになるのかもしれない。
ベクトルをもつということ。批評のベクトル、誰かに向けて発せられるベクトル。そのベクトル(特に前者ですが)と、読み手であるこちらのベクトルがぴたりと合ったとき、俳句にはあまりない爽快感があるのかもしれません。
ただ、ベクトルというからには、別の方向もあり得る。私などは、この句を読んで、なぜ「姿勢崩して」じゃないんだろう?という連想も働きました。それは、読む喜びを阻害するものではなくて、楽しい「反論」なんだけれども。

信治::むちゃなことを言い出すという芸風は、俳句にもあるんですが、樋口さんの場合、無茶なことを言うというポーズに風情があるとかじゃなくて、より直球というか、ほんと、無茶なこと言いたくて言ってる感じがするんですよね。
「ひとりごと、つぶやき」なら、何を言っても、おじさんがまた、何言って、ってかんじですけど「言明」だから、どきっとさせる、というような、かんじでしょうか。〈肉親は姿勢正しく水に浮く〉(反論があったらどうぞ)って。

天気::肉親は姿勢正しく水に浮く=(反論があったらどうぞ)は、ある種、言い得て妙ですね。言明、あるいはステイトメント(宣言)というのかなあ、俳句でそれをやっちゃ野暮ったくなる。でも、川柳は、そこをうまく野暮にしない洗練をもっているのかもしれません。信治さんの「誰かに向けて言っているかのように」の部分ね。

信治::「そこをうまく野暮にしない洗練」とは、言葉のスピードじゃないですかね。すぱーんという。朝比古さんの〈水打って小さき町となりにけり〉の上五中七のあいだの、一呼吸と、由紀子さんの〈肉親は〉の切迫との、差。

天気::「言葉のスピード」という点は作家論にも発展しそうですね。それを言われて実感したのが、朝比古さんの句のおおかたに、伝え急ぎ、のようなものがないこと。句の成否にかかわらず、ゆったり伝えてくる。
ま、それはあとにするとして、川柳の、その「言明」という点に話を戻しましょう。俳句は、「ひとりごと、つぶやき」という信治さんのことばは、そのとおりでね、譬えていえば、会社で会議をしている。川柳は、というか、樋口さんの7句を読んでいると、はっきりとアイデアを出して、その場の笑いもとれる、という感じ。
ところが俳句は……これは朝比古さんの7句が、というのではなくて、なぜか一般論にしてしまいますが、「きみ、どう思う?」と上司に訊かれて、「あ、聞いてませんでした」。それが俳句。あるいは、会議そっちのけで、社長の似顔絵を描いていて、それがおもしろい、というのが俳句の領分。川柳は違う気がする。
たとえば、〈目と口が映った水は捨てるべし〉。上中は俳句にもあるモチーフ。下五に季語を入れて、「はい、俳句」ということにもなる。ところが、「捨てるべし」。

信治::そうそう。この「捨てるべし」は、最高でしょう。
俳句と入れ替え可能なのは、例えば、〈鏡台を動かし水を確認する〉。これなんか、櫂未知子だって、文体としてはこう書くかも知れない(無季だけど)。でも、川柳の文脈におくと、これも、言明、「確認するのだ、私は」と、聞こえてきます。

天気::〈鏡台を動かし水を確認する〉からは、水にまつわる隠喩の体系の巧い〈はぐらかし方〉を感じました。鏡=水という詩的連関に向かって、ぐいっと動かして(それも鏡台という身も蓋もなく日常的なものを)、確認する、というのですから。
樋口さんの7句は、水という存在(というより語か?)に対して、戦略的にアプローチしていると感じました。そこのところがさすがだな、と思ったのです。
「水」というものが、言説(あるいは詩)のなかに置かれる脈絡のようなもののバラエティが出ている。1句目と7句目の「浮く」のあいだの5句が、幅広いんですね。領域、水の物理的な動き、鏡、音、ふたたび鏡。

信治::戦略的アプローチ、言われて気づきました。みごとですね。
川柳はきっと、俳句にある、俳句的「よろしさ」みたいなものを前提にしないので、より、一句一句の立ちどころに、意識的にならざるをえないんじゃないでしょうか。
対して、朝比古さんのは、俳句の水のイメージアーカイブで、遊んで、それで、十分楽しいってかんじ。あ、ちょっと。俳句的「よろしさ」といってしまうと、ぬるいですね。「共通項」というか、「入り会い地」というか、まあ、ようするに「場」ですね。

天気::アーカイブ。言い換えれば、俳句的伝統。それとの距離というか、参照のしかたの如何が、作家性にもなってきますよね。

信治::その「俳句的伝統との距離、参照のしかたの如何が、作家性」という部分、朝比古さんを論じるため、みたいな論点ですね。おもしろい。小野裕三さんが、朝比古さんのことを「俳句に嫉妬する俳人」て書かれていたじゃないですか(編註:『豆の木第11号』所収「向こう岸の男 齋藤朝比古小論」)。ぼくは、あれ「俳句に 憧れる俳人」という意味だったら賛成です。
俳句に対する、手放されることのない「よそもの」感が、きっとあるんだと思います。それと、たぶん「心太」や「浮いてこい」「撒水車」に対する、好きさ加減に、朝比古さんだけのものがあって、それが、季語や、俳句的情緒に、ずぶずぶにならずに遊ぶことを可能にしてる。
だから、川柳7句と並べて、ぬるくないんだと思います。

天気::私は、朝比古さんの7句だと、奇数目の句(1句目、3句目、5句目、7句目)はアーカイブ(俳句のもつレガシー)に近すぎる感じがします。偶数目の句がおもしろい。〈ポエジーのポの顔をして浮いてこい〉は、機知に力が抜けている。〈水打つて小さき町となりにけり〉は、解釈がむずかしいですが、意味より空気を伝えてくる。〈水すべて撒いてしまひし撒水車〉は、絶賛します。

信治::「水すべて」では〈撒水車〉っていうところに、俳人のココロイキを見ます、ぼくは(笑)。朝比古さんは、俳句「的」なもの大好き、って言えちゃう人だから、きっと。
あと〈浮いてこい〉が、季語とすると、名詞だけど、ふつうにとれば命令形じゃないですか。これ、ぜったい、趣向だと思うんですよ。名詞ととれば、俳句だけど、動詞と取れば川柳になる、という。で、きっと朝比古さんにとって、川柳って〈ポエジー〉なんじゃないか、と。少し、それましたが。

天気::はい。〈浮人形〉じゃなくて〈浮いてこい〉ね。これは戦術でしょう。川柳=ポエジーの意識は、すこし穿ちすぎ、とは思いますが。
朝比古さんは、「浮いてこい」の使用頻度の高い人だと思います。この季語は、朝比古好みなんです、きっと。

信治::なるほど。「浮いてこい」、いい季語ですね。「撒水車」と同じで、詩語じゃないんだけど、使うだけで俳句ワールドです。
俳句も川柳も、放たれるものとしては同じだけど、俳句は、多く「場」に向けて放たれ、川柳は、あらかじめの場のないところ、虚空っぽいところにむけて放たれて、だから、直接、読者にむかう、みたいなことが言えそうです。これは、ひょっとして、アチラの世界では常識でしょうか。

天気::その対照、俳句=場に向けられる、川柳=虚空→読者、はかなり説得力があるような気がします。川柳の「入会地」「レガシー」は、どうなんでしょう? 興味深いところです。

信治::朝比古さんの7句だと、〈また同じ本数突かれ心太〉、わりと、好きです。なんか、「ああ、がっかり」みたいなかんじがして。まったく、それは、言い方だけから発生する「まぼろしの感情」なんですけど。



第二夜

天気::「俳句ワールド」という語から始めましょうか。〈浮いてこい〉〈撒水車〉。朝比古さんは、こうした「俳句ワールド」のキーワードの使用に長けた作家、という見方をしているんです。長けた、というのは、筋がいい、素性がいい、という感じです。てらいなく、かといって、浸りきるのではなく。
そのへんは、信治さんの指摘、「季語や、俳句的情緒に、ずぶずぶにならずに、遊んでる。」につながるわけですが。

信治::「俳句ワールド」ていうものがありますよね。既存のイメージの蓄積であり、了解項であるような、ガス状の中心地帯が。川柳の人から見ると、そんなものを使うのは、ずるいと思われるのではないでしょうか。
「俳句性」でもいいんですけど、それだと、俳句に内在するみたいになっちゃうんで、「俳句ワールド」。

天気::もうすこし言ってしまえば、俳句のしつらえてくれた虚構とのつきあい方がうまい。朝比古さんが俳句研究賞をとったとき、私はブログで、「カメラの句が素晴らしいが、朝比古さんは、カメラを実際に見たり触ったりしているわけではない。知っちゃいなくても、句にしてしまうのだ」と、好意と賛意をもって書きました。その脈絡で言えば、「浮いてこい」も「撒水車」も、見ちゃいない。でも、「だから、どうした?」というのが私の立ち位置です。実際に見て、つまらない句を詠むより、見ずに、おもしろい句を詠んでくれ、という立場。虚構についての理解力のある作家が、私の好み、というところがありますね。

信治::「俳句のしつらえてくれた虚構」、これは、いい言い方をしていただきました。落語好きの人はよく「落語国」なんて言い方をしますが。俳人は、みんな打ち水で涼しくなる世界に生きている。俳句にあらわれる食い物は、旨いもの、とか。

天気::「川柳ワールド」というもの。もしあったとしても、俳句の場合とすこし違う気がします。
「俳句ワールド」は、価値とかそんなものではなく(価値と反価値の併存)、イメージという前提を明確にしたうえで話さないといけないですが…。ディズニーワールドが、ワールドの実体ではなく、イメージのワールドを箱庭化しているのと同じで。
もっとも、俳句の「虚構性」については、「まったく首肯できない」という俳人も多いと思います。

信治::あ、そうか。だから「価値ではなく」と、留保がつくわけですね。
ただ、あれですね、俳句を知ってしまうと、言葉がもう無色ではありえない。摂津幸彦の句だって「野を帰る父のひとりは化粧して」の「野」は、やっぱり「野分」や「枯野」の「野」だろうと、思えてしまいます。やはり、俳句を知っている読者にむけて書く、という無視できない側面が俳句にはあるような気がします。
川柳は、なんだろう、同時代精神にむけて? いや、精神といわずとも、同時代の不特定多数の読者を前提としているような気がします。

天気::私も、そう想像しています。その意味で過酷だと思っています、川柳は。
俳句は、俳句ワールドに凭れかかろうと思えば、どこまでも凭れられる。句の如何にかかわらず。

信治::凭れかかる、とは、季語になっている事物を「佳きもの」とする、とか。自然を「佳きもの」にする立場は、ちょっとあやういものがありますね。(俳句を「言霊」とか「誉めうた」として立たせようという考えには、ちょっと関心もあるのですが)
ともかく、大半の俳句作者には、歴史性への接続を求める心性がある気がするのですが、川柳は、横に、同時代に行くのかもしれません。

天気::そうなんでしょう。ざっくり言えば。
ただ、私と信治さんは、川柳に不案内ですから、初歩的の把握を確認しあっているに過ぎない危険性があります。歴史と時代、同時代、このへんのことは、すでに数百倍精緻に論じられている可能性が高い。

信治::おおお、そうでした。ゆるゆる、いきましょう。

天気::俳句はノホホンと口をあけて、五七五やってれば済む業界ですが(それだから、やっているのですが)、川柳の世界はそうではない、と思います。私らにも、割って入れる隙間のような話題を狙いましょうか。そうでなければ、ボケて、笑いをとるとか……。たとえば、樋口由紀子氏における〈尼崎〉性について、とか。信治さんは、東国出身ですか?
尼崎の尼崎たるところ、って、なにか、とっかかりはありますか?

信治::ぼくは郊外そだちで、子供のころは、東京と、大阪と、行ったり来たりでした。「尼崎越えたら」って、やっぱり、大阪から西のほうへ向ってるって、かんじですか。ここら、しばらく異界がつづきます、というかんじで。

天気::勝手な解釈ですが、尼崎を越えたら、尼崎じゃない場所だという(笑)。西でも東でもなく。尼崎は、やはりスペシャルな場所、ということで…。ちょっと話がそれますが、毛呂篤という、とんでもない俳人が尼崎の人です。

信治::それにしても、朝比古さん、トップバッターは、なかなか絶妙でしたね。朝比古さんの句は、日本語が分れば、味の部分までよく分る。そこは、川柳と同じで、同時代・不特定多数の読者に開かれてるんだけど、やっぱり、すごく対照的で。

天気::樋口さん・朝比古さんでこの企画のスタートを切れたのは「週刊俳句」にとって幸せでした。こんなところでしょうか。「水」2作品を、無謀にも、こうして語ってきたわけですが。

信治::なんか、いろいろ、この試みから、俳句を照らす論点がありそうです。
「俳句ワールド」と言いましたが、ようするに季語ってことですかねえ。季語が担保している、俳句性、俳句っぽさみたいなものを、俳句はものすごく前提としているのだ、ということを再確認しました。



2007-06-03

7×7 樋口由紀子×齋藤朝比古


樋口由紀子 
水に浮く     


肉 親 は 姿 勢 正 し く 水 に 浮 く

尼 崎 越 え た ら 水 に 足 を 入 れ

針 と 糸 取 り 出 し て く る 水 芸 人

目 と 口 が 映 っ た 水 は 捨 て る べ し

こ の 前 は セ ー タ ー だ っ た 水 の 音

鏡 台 を 動 か し 水 を 確 認 す る

来 月 は は れ ば れ と し て 水 に 浮 く






齋藤朝比古 水すべて       


ま た 同 じ 本 数 突 か れ 心 太

ポ エ ジ ー の ポ の 顔 を し て 浮 い て こ い

あ め ん ぼ の 水 面 を す こ し 持 ち 上 げ て

水 打 つ て 小 さ き 町 と な り に け り

金 魚 売 水 影 揺 れ て 水 揺 れ て

水 す べ て 撒 い て し ま ひ し 撒 水 車

夏 の 月 子 の じ や ぶ じ や ぶ と 洗 は る る





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