俳句の骨法
齋藤朝比古句集『累日』
三島ゆかり
『豆の木』第18号(2014年4月)より転載
どういう訳か齋藤朝比古さんのことを考えようとすると「俳句の骨法」という言葉が頭をよぎる。多分朝比古さんが誰か別の人の作品に触れて「俳句の骨法をよく理解した上で独自の…」みたいなことを書かれているのを偶然読んで印象に残っているのだと思うが、いま確かめるすべはない。すべはないのだが、とにかく私の脳の中では齋藤朝比古→俳句の骨法という条件反射ができあがっている。私は朝比古さんの伝記的な事実はほとんど知らないので、単に書かれた俳句作品を読みながら、俳句の骨法とはなんなのか考えて行きたい。句集は数年ごとに六章に分かれているが、句柄の変遷があるわけでもなさそうなので、章立ても無視して拾ってゆきたい。
1 目の焦点をずらす
俳句というのはもしかしたらある種の宗教かも知れない。スピリチュアル小説のジェームズ・レッドフィールド『聖なる予言』には、しばしば目の焦点をずらしてエネルギーを見る場面がある。それをエネルギーだ、オーラだと語ると危ない人だと思われたり、友人を失ったりしかねないが、俳句の場合はどうだろう。その見えようを「発見」として称揚し、「新鮮な驚き」としてありがたがっていたのではなかったか。たぶん宗教家が修行を積むように、俳人も修業を積んで骨法を獲得するのだ。普通のことが普通に見えているうちは俳人にはなれない。
ひとつづつ影を増やして雛飾る
雛壇に雛人形を飾るとき、おのずと雛人形の影も増える。まったく当たり前のことで、実社会ではなんの役にも立たない。もし子どもがそんなことを言ったら「馬鹿なこと言ってないで勉強しなさい」と叱られるのが関の山だろう。ところがひとたび俳句形式として作品に定着させるや否や、それは発見として読むものの心を捉えて離さない。まさに俳句の不思議である。「影」としか書いていないことによって、見えてくる溢れる光。言外のはかなさ、作中主体の屈託。
鬼やんま頭運んできたりけり
生物が移動するさまを捉えて、その身体部位を運んでいるとはふつう感じない。これも修行によって到達した極意だろう。そしてそう書かれたとき、読者は改めて鬼やんまの異形に思い至る。ある種の俳人の目の焦点は確かにずれているのだ。そしてそこで見えたものは、誰もエネルギーとかオーラとか呼ばないけれど、俳人という共同体の中では、もっとも尊ばれるべきものなのである。
2 言葉を遊ぶ
言葉の中には、語源的にさらに要素に分解できるものがある。多くの場合それをいちいち分解して用いることはないのだが、なにかの拍子にその要素が急にメッセージを主張し出すことがある。そうしたメッセージを鋭敏に捉えることも修行のひとつだろう。
北窓を開けば北を向いてをり
唖然とする。そりゃそうだ。単に諧謔と呼ぶのとも少し違うだろう。これは氷山の一角に過ぎず、作者は複合語を見ると、これは俳句にならないだろうかといちいち分解しているのではあるまいか。
風花の風なくなつてしまひけり
こちらはたまらなく切ない。でもそれが風花というものなのだ。単にリフレインと呼ぶのとも少し違うだろう。歳時記に載せて人類が続く限り伝えてもらいたい句である。
3 脱衣
章の見出しとしてもっと適切なものがありそうだが、朝比古句には脱衣の句が多い。もののありようが変わるとき、そこに変わるものと変わらぬものを見出す、という試練をおのれに課しているかのようである。
マフラーをたためば重さありにけり
巻いているときには感じなかったマフラーの物質としての重さが、たたんでみると忽然と感じられる。その意識の変化の不思議さをさらりと捉えている。
セーターを脱ぎてセーターあたたかし
同工であるが、体温という陶然とするぬくもりに対する根源的な嗜好が、リフレインという作句技巧をまとって表現されている。
4 手品
朝比古句には、ときどき手品に騙されるようなものが混ざっている。読みながら、騙されてはいけない、騙されてはいけない、と過剰に反応し、論理的な正当性を検証したくなるような句だ。
脱いで着て脱いで水着になつてをり
またしても脱衣である。何か騙されているような気がするのだが、実際に水着に着替えるプロセスを検証すると、確かにこうなのだ。水着の上に、脱ぐためのものをわざわざ一枚着る人類の習性。それを「なつてをり」と詠む作者の立ち位置は動物行動学者
視線だ。
ふらここの影がふらここより迅し
手品系の最たるものは本句だろう。最初これはうそだと思った。円弧を描くふらここの方が平面上を直線運動する影より大きく移動するのだから、本当はふらここの方が速いのでは、と。大きく移動する分、ほんものは明らかに遠回りして感じられ、その分遅く見えるだけでは、と。でもよくよく考えてみると、本当に影の方が速い場合がある。
ふらここの軌道を半円とし、ふらここが一番下がったとき地面に接し、太陽は左上45度の無限遠点にあり、ふらここが左から右に進み、半径rとする。
最初に思ったのは、影は2rしか進まず、ふらここは2πr/2進むのだから、どう考えたってふらここの方が速いではないか、ということだった。が、よく考えると、起点からふらここの軌道が太陽光線と接する下図のBの位置まで、影は逆に左へ進む。ふらここがBを過ぎると影は右に進むようになる。そして、影は最下点から2r右に進む。影が最下点から2r右に進む間、ふらここは半円のさらに半分を進むので2πr/4=πr/2移動する。2>π/2なので、影の方が速いのである。
5 フォーム
齋藤朝比古といえば有季定型である。が、そこに一途な重みや悲壮な決意のようなものは感じられない。むしろ、優れた変化球投手がどんな球種でも同じフォームから繰り出すことができる、そんな飄々としたイメージを感じる。落語家は自分が笑っちゃいけない、とも言い換えられるか。そのようにして、ぬらりひょんと焦点のずれた句や言葉遊びの句や手品のような句が、まったく同じフォームから繰り出される。結局のところ俳句の骨法とは、五七五のことなのである。
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