『俳句界』2007年7月号を読む ……五十嵐秀彦
このところ『俳句研究』誌の終刊というニュースが駆け巡っている。
その方面にはうとい私の耳にも自然と入ってきたのだから、俳壇トップニュースの類であろう。
あたりまえのことがどんどん崩れてゆくこの頃なのだから、驚くに価しない。
これまで当然とされてきた社会的文化的な水位がどんどん下がってきて、さまざまなジャンルが干上がっている。
文芸も例外ではない。
よくここまでもったものだとも言えるだろう。
何の根拠もなく盲信されてきたものは、これから短期間のうちに全て消えてゆくような予感がある。
そんなことはない、今も俳壇はドンを中心に保守的で磐石だ、と言うだろうか。
なに、あと二十年もしないうちにみな死んでしまうのだよ。
あの禿山はこの前まで隆盛をきわめていた結社の○○、あっちの茶色の崖は俳誌○○、足元のひびだらけの岩は○○協会。
そんな光景はもう目の前に迫っている。
盲信してきたものをただ守ろうとしても勝目はあるまい。
新しい価値という水脈を掘り当てて水位を上げてゆくしかない。
それはわれわれの世代の仕事か、次の世代の仕事か。
これまでの世界が崩れてしまうということに、文芸という世界に限って言えば、私はさほど悲観してない。
いずれ新しい世界に生まれ変わるのだと思えば楽しくさえある。
その新しい世界の芽は既にどこかに生れているはずだ。
それを見つけ出せないでいる私はまだ旧世界にこだわっているのかもしれぬ。
さて、『俳句界』7月号を読んでみよう。
●浅井愼平 特別作品50句「トタン屋根の下」
永遠の素人青春俳人。浅井愼平の俳句から受ける素直な印象をひとことで言えばそんな感じかな。
もちろん貶しているつもりはない。むしろ褒め言葉と思ってほしい。
労働祭修司の下駄の厚さかな
波音やヨットにレモン転がれる
七月や少年の自涜青々と
かなしみを撃て我が夏の拳闘家
チェロ弾ける裸の人の煙草かな
夏嵐カフカの机傷いくつ
一読して、これは寺山修司へのオマージュだと感じた。
「労働祭」「レモン」「自涜」「拳闘」「チェロ」「カフカ」。
季語ではなく、一句の中の呪物としての言葉の存在に注目する姿勢は寺山のものだ。
それゆえ共感を持って50句を読みとおせたが、しかし、寺山修司へのオマージュ俳句を作ることと、寺山的状況とは全く別な次元であることは言うまでもない。
残念ながらこの50句に寺山的衝撃もドラマもない。
よくできた予定調和的「青春」俳句が並んでいる、と皮肉のひとつも言いたくなるのだった。
●特集「夏を飲む、夏を食べる」
▼櫂未知子 エッセイ「自然に寄り添う」
夏の季語としての食物のさまざまについて上手に整理して書かれている。
また、冷房の普及により「夏だからこそ寒い」という珍現象が、日本人の食生活を変えている事実を指摘し、自然を従わせるのではなく、自然に寄り添うように生きてゆくことが、夏の食べ物、飲み物を体に行き渡らせることになるとの結論を導く。
論旨はやや陳腐ではあるが、文中に引用されている夏の食の句は魅力ある作品が選ばれている。
一生の楽しきころのソーダ水 富安風生
▼「ほろ酔い!?座談会 日本の夏を振り返る」
清水哲男(司会)、ねじめ正一、能村研三、麻里伊
このところ『俳句界』を読むたびに感じていることがある。
それは座談会がヌルイということだ。
今回も例外ではない。ただの世間話である。
このメンバーを集めて、どうしてこうなるのか不思議だ。
それぞれにエッセイでも書いてもらったほうがよっぽど面白かったことだろう。
ヌルイ世間話につきあうほど暇ではない。
▼「飲食句コレクション」
編集部が選んだ夏の飲食系俳句76句。
これはどの句も面白かった。
こういうアンソロジーは俳句を読む楽しみをたっぷりと味わわせてくれるもので、私は好きだ。
冷やし中華運ぶ笑顔でぞんざいで 星川佐保子
がてんゆく暑さとなりぬきうりもみ 久保田万太郎
土用鰻店ぢゆう水を流しをり 阿波野青畝
父祖哀し氷菓に染みし舌出せば 永田耕衣
●坂口昌弘 「ライバル俳句史19 美への存問 年尾と立子」
好評連載中のライバル・シリーズ。今月のライバルは、なんと年尾と立子であるという。
この二人をライバルと見ることの不自然さをどう料理するのか、興味を持って読んだのだが、どうやら言いたいことはそこにあるのではなかったらしい。
これは筆者のホトトギス再評価論なのではなかろうか。
ホトトギスといえば客観写生という先入観を、年尾、立子だけではなく虚子、汀子の句も挙げて突き崩そうという試みのようだ。
客観写生を唱えてきたはずの高浜家三代の俳句の特質は、もっとも主観的な形容詞「美しい」を使っていることである
高浜虚子以下三代一族に流れる精神的句統とは自然の「美への存問」である
立子句は本質的にはロマン性のある主観の句である
写生とは率直に自然の中の物の怪が感じられるということ
立子の心が恐ろしいほどの生命の緑に染まった時に句が生れる
一貫してこの視点で論が展開されていて、年尾、立子が写生を「心」によっておこなっていたことを説明することで、写生という概念の見直しを求めている。
そのこと自体、私に異論はない。
と言うよりも、詩に客観も主観もないと私は思っているので、筆者の主張は当然すぎるほどだ。
しかし、客観写生は現在ホトトギス内部でどうとらえられているのだろうか、その点が気になった。そして、筆者が反ホトトギスの悪しき象徴のように文中で4回も批判した「俳人批評家」とは誰のことか。
俳人批評家は百年間虚子を批難し続けてきたから虚子は不動のカリスマになったというのはアイロニーだろうか
反「ホトトギス」反虚子を言あげする俳人批評家は自然が嫌いであるか、自然を美しいと思わないか、俳句を言葉の取り合わせの遊びの道具とみている
虚子の俳句論は宗教的という批判があり、虚子を批難する俳人批判家は多く宗教を嫌う人、神仏を否定する人である
他人の句や文を批判ばかりする下品な俳人批評家は自らの俳句や文章がほめられたことがないからであろうか
かなり手厳しい。
しかし、相手の姿が見えないので、具体的にどのような意見を批判しているのかわからない。今回はその点が気になった。
できればこの企画ではなく、筆者のホトトギス論自体を読みたいし、その中では相手の意見をきちんと紹介した上での批判を展開してもらいたい。
私には反ホトトギスの批評家がみな自然を美しいと思わなかったり、神仏を否定しているとは思えないのである。
■■■
2007-07-08
『俳句界』2007年7月号を読む 五十嵐秀彦
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿