2007-07-15

『俳句研究』2007年8月号を読む(上) さいばら天気

『俳句研究』2007年8月号を読む(上) ……さいばら天気




休刊号(07年9月号)のひとつ手前。冒頭近くの見開きに「休刊のお知らせ」がある。休刊が廃刊を意味するのは周知のことだが、「俳句研究」の場合、その一般則の例外として、またいつか再刊される可能性がわずかではあるが残されているような気がするのは、昭和九年改造社から創刊されて以来、発行所の変更、休刊を幾度か経たという歴史のせいだろうか。けれども、休刊後の未来をここで憶測するのはほとんど意味がない。記事の本旨に戻り、ページをめくることにする。

「俳句研究」掲載作品から選ぶ平成の秀句100句鑑賞事典 p75-

休刊を次号に控えての回顧的企画。数多くの掲載句から100句を選ぶのは苦労が大きかったことだろう。俳人ひとりにつき1句となっているので、まずは100人を選ぶことになる。句を選ぶよりも、むしろこっちのほうが大変かもしれない。ともかく多大な労力だったろう。100頁の塊としてインパクトや新鮮味には欠けるが、休刊にあたっては、「やっておかねばならないもの」との認識、と見た。その編集姿勢を、ここから地味に、しかし力いっぱい称えたい。

読者としては、句をざっと読み、好きな俳人、好きな句の「鑑賞」を拾い読みすることになる。私は、まず三橋敏雄の「石段のはじめは地べた秋祭」の鑑賞をじっくり拝読した。一句一句に3名の鑑賞文を付した点がこの特集のひとつの眼目。この句の鑑賞執筆者は池田澄子、鴇田智哉、高柳克弘。いずれもよく洗練された短文。良い書き手は、書き手として何が求められているかをそのときそのとき的確に掴む。結果、3つの短文が並んだとき、申し合わせたかのように重複がない。p78はそれがみごとに実現されている。

小林恭二 恭二歳時記(52)新興俳句1 p46-

必読。新興俳句を、丹念に、かつ無駄なく整理。秋桜子の微妙かつ重要な位置、連作のジレンマなど、どの部分がどの程度、過去の研究業績に依拠・再現なのか、浅学の私には判別しかねるが、示唆深い把握・指摘が随所に。

こうした連作俳句にいちばん困惑したのは選者たる虚子でした。虚子はその作品がそれだけの可能性を秘めているかどうかという点を、作品評価上、重視していたはずです。いいたいことをすべていいきってしまう連作俳句に、発句的意味合いにおける可能性はありません。これでは何を基準に選べばよいのかわからなくなってしまいます。

(…)虚子はもともと許容度の広い人です。それが客観写生というような、過度にストイックな方法論をとなえたのは、秋桜子に対する攻撃のためだったのではないかと、わたしは疑っています。

あとは読んでください。しかし、来月号で休刊となれば、この連載も終わる。新興俳句に関するこの章は、内容的にあと1回で終わるとは思えないし、終わってしまうのはもったいないと、正直なところ思う。

なお、新興俳句は、仁平勝「おとなの文学(14)新興俳句の置き土産」(p64-)も扱い、小林恭二の論考が真正面からのアプローチとすれば、こちらは斜めから。

新興俳句運動とは、なによりもまず、新しく自分たちの俳句雑誌を創ることだった。(…)ちなみに、これは今日でも見られる光景である。というより、ここ何年かで顕著になった傾向だが、結社のなかで俳句修行をしてきた人たちが、やたらと同人誌を出すようになった。

この後半の部分、「ここ何年かで顕著になった傾向」についての言及は、冒頭カラーグラビア「今月の顔 今井杏太郎」にある次の一文と奇妙に、あるいはかすかに呼応する。

この頃、こころざしの豊かな若い人達が、新しく「俳句結社」を立ちあげ(…)る傾向が目立つようになった。俳句隆盛のためには大いに好ましいことと思っているが、その反面、いわゆる群雄割拠の観を呈する結果にもなりかねない。そこで、世の多くの企業が生き残りをかけて合併に踏切るように、「俳句結社」の合併ということも或いは、必要になって来るかも知れない。

    *

俳句作品では、高野ムツオ「みどりの夜」(p24-)の病吟33句が心に響いた。

  遠青嶺みな手を胸に置くごとし  高野ムツオ



2 コメント:

ほろほろ蛙 さんのコメント...

天気さんの文章は、構えずに読めて良いです。小林さん、仁平さんの連載を楽しみに毎号買っていたので中途半端で終わりそうで残念ですね。
句友・句敵には触れないのですか?(笑)

天気 さんのコメント...

連載の中断、ほんと残念です。


> 句友・句敵には
はい、触れませんw
雄鬼さんは鷹揚な人なので、許してくれるはずです。