2007-07-01

週俳6月の俳句を読む

週俳6月の俳句を読む

三宅やよい 「平日の影」10句  →読む
金子 敦 「虹のかけら」10  →読む
雪我狂流 「魚のやうな」10  →読む
こしのゆみこ 「ゴールデンタイム」10句  →読む
馬場龍吉 「まぼろし」10  →読む




倫代 ----------------------------------------------------------------
橋 わ た る 前 ま で 白 い 鷺 で あ り   こしのゆみこ

チャーミングで童話的でどこか懐かしい感じがする十句の中で、掲出句は民話の趣である。民話の中でも鶴女房とか蛇婿とかの変身譚。そう思わせるのは「橋」の存在が大きい。橋の境界性については言うまでもないことであるが。

橋をわたる前の「白鷺」とわたったあとの「何者か」。あえてその後を語らず、読み手の前に何気なく置く。その後のことはご自由に。これこそ俳句の醍醐味、魅力のひとつ。はっきりと見えないからこそ橋の先の異界に魅せられ引き込まれるのだから。



ひらの こぼ
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五 分 刈 り の 首 を さ し だ す 木 下 闇   三宅やよい

木下闇と五分刈りのまん丸な頭の取り合わせ。どちらも色はモノトーン。まるで花札のような図柄が浮かびます。

言葉通りに解釈すると、さてどういう句なんでしょうか。実はよく分かりません。散髪が終わって窓から庭でも眺めているんでしょうか?あるいはピーピングトム?それとも断頭台が木下闇に置かれている?ひょっとして打ち首のシーン?などなどとも考えられます。

でも最初に浮かべたイメージが頭を離れません。それは箱庭のような小さな木下闇に大きな五分刈り頭がヌッと現れたという図。妙に気になった句でした。「初夢のいきなり太き蝶の腹」(宇佐美魚目)なども思い出します。


ラ イ オ ン の ま な こ の 奥 の 青 嵐   金子 敦

カメラがライオンを捉えます。そしてまなこへズームイン。で、まなこの奥の超ミクロの世界へ入っていきます。そこにはライオンの心象風景の世界、青嵐が吹きわたる壮大な世界が広がっています。
「頭の中で白い夏野となつてゐる」(高屋窓秋)のライオン版といったところでしょうか。

「~の」を三つ連ねることで、ライオンの心象風景へズームインしてゆくというつくりも面白いと思いました。


湖 は 平 ら な と こ ろ ボ ー ト 浮く   雪我狂流

一読、お絵かき歌のような句だなあと思いました。こういう句ってみたことがありません。

「一月の川一月の谷の中」(飯田龍太)も単純明快な構成の句ですが、やはり「一月」ということで見えてくる風景があります。でもこの句からは一切の周辺の景が立ち上がってきません。風もないし、さざ波も立っていない。人の気配もないし湖の周辺の情景も浮かばない。読者にそうしたヒントを一切与えてくれません。

もちろん「ボート」が季語ですが、「漕ぐ」でも「揺れる」でもなくただ「浮いている」だけ。単純さもここまでくればすごい!と思います。なんだか忘れられない句。



遠藤 治 ----------------------------------------------------------------

浮 島 へ 鳥 つ き さ さ り 卯 浪 立 つ   馬場龍吉

「浮島に」ではなく「浮島へ」であるところに、ベクトルと動きを感じる。季語の斡旋とともに、生命感、躍動感が一句からはみ出してくるかのようである。


机 よ り 腕 時 計 垂 れ 昼 寝 覚   金子 敦

「垂れ」と形容できるのは、最近はあまり見かけないキャタピラのような金属製のバンドであろう。あと少しで落下するところで寝覚めたのであろうが、いっさいの感情を排して即物的に詠み一句をものにしている。


湖 は 平 ら な と こ ろ ボ ー ト 浮く   雪我狂流

観光地であろうとなかろうと、湖は平らで何もないところなのである。それをそのまま言い切り、付け足しのように「ボ ー ト 浮く」としたところが、また現実の湖そのままである。



猫髭 ----------------------------------------------------------------

貝 殻 を 洗 つ て ゆ き し 大 夕 立   金子 敦

金子敦の句をヤドカリ俳句と評したことがある。それも本人の目の前で。自分の居心地のいいように貝殻の中を磨きに磨いて、そこから一歩も出ず、そこに入ってきた客が、何と無疵で綺麗な世界だろうと目を細めて漏らす溜息と賛辞を糧にして生きているような俳句である。ポエムチッ句と揶揄するときもある。しかし、彼は何でも褒め言葉ととるので、「うまい事言うなあ。そうかもしれないねえ」と感心して、相変わらず、大好きな木下夕爾のポエムをわたくしに見せながら、行き付けのスナックのカラオケで「さとうきび畑」を延々十一番まで歌うのだ。【季節よ、城よ、無垢な心がどこにある】とランボーなら毒づくところだが、これが荒くれの心も和ませる無垢な歌声なので、猥雑なカラオケ・スナックが、あっちゃんのヤドカリ御殿と化す。揚句の景のあとに見えるものは、虹とヤドカリならぬ、虹と蝸牛である。

  にじとかたつむり 木下夕爾

  あかいところだけのこして
  消えかけていたにじ
  ぐみの葉に
  とまっていたかたつむり

  はっきりと
  おぼえている

  しかられて
  背戸のはたけに
  でていたとき

村上春樹は、ボブ・ディランの声を「まるで小さな子が窓に立って雨ふりをじっと見つめているような声」と小説の中で女の子に言わせているが、金子敦の句も、例えれば、木から下りられなくなった子猫の声のようで、その「ね、が、う」と聞こえるような鳴き声は、不思議に、まだ世の中に対して柔らかい心をもっていた少年の日を思い出させる。祈りのように、祈ることそのものに癒されるように、金子敦は句を歌い、そこに「願う」という幽かな子猫の声を聞く耳を持つ者が、彼の俳句の読者となり、彼の句に癒される。


湖 は 平 ら な と こ ろ ボ ー ト 浮く   雪我狂流

本郷菊坂の樋口一葉の旧居を過ぎて歩いていると、昔ながらの風呂屋があって、その前に有平棒の止まっている床屋があった。覗くと暗い室内に窓からの幽かな光で金魚の水槽が見える。狂流さんの好きそうな景だなと思って鎧坂の方へ歩いて、振り返ると、案の定、狂流さんが覗き込んでいる。【まあきれいなんとまずそな熱帯魚】という狂流さんの名句が髣髴と浮かぶ。

狂流さんが句会に顔を見せないと淋しいほどだが、そういうときは海外に貧乏旅行に出かけている。俳人が好きなパセリほどの緑のマンハッタンや、間延びするパリー祭などには洟も引っ掛けずに、インドや中近東やモンゴルといった、いわゆるアジア的な、人が犬に食われて【対岸に人が落ちてる】ような土地柄ばかりを歩く。いかにも狂流さんらしいが、そういったこだわりは、俳句的な要素をはぐらかしながら、その直感とはにかみが飄逸な味わいを持つ狂流さんの選評でも同じであり、俳句らしさにこだわる欲があると彼は絶対と言っていいほど取らないので、句会ではリトマス試験紙のような役割を果たす。

揚句は、【湖は平らなところ】と、三尺の童子のような目で景をとらえながら、【ボート浮く】がまるで【ボート置く】というように、そのボートをつまんで湖に置いたような、箱庭的シュールな味わいが面白い。

今回、一人一句という事で揚句を選んだが、狂流さんの句は、例えば、

  三島忌やすっぽりぬけしコンビーフ
  三島忌やすっぽりぬけしコンドーム

といった、何を考えているのか本人にもわからないような連句も持ち味だから、是非、雪我狂流句集『御蔭様』を御覧いただきたい(『浮御堂』表紙CONTENTSのarticleの中にあります)。不思議な句集である。しかし、これほど独創的で面白い句集は滅多にない。


雨 音 の 高 野 聖 と な り に け り   馬場龍吉

【高野聖】
(1)平安中期以降、仏道修行のため高野山に隠遁した僧。
(2)寄付を募るため、高野山から出て諸国を勧進遊行した僧。
(3) タガメの異名。高野僧が笈を背負ったような模様があるのでこう呼ばれる。[季]夏。
(4)泉鏡花作。明治33年発表。旅僧を語り手として、飛騨天生峠の魔性の美女のいる超現実世界を描く小説。

龍吉さんの俳句サイト『俳俳本舗』で、投句仲間の一浪さんが揚句をこう評していた。
【この句は泉鏡花の『高野聖』が主題と言ってもいいと思います。読まれた方も多いと思いますが、とにかく面白い物語です。ですから、この句は百物語のように、この物語のことを詠んだ形になっています。この物語には様々な生き物たちが(蛇・蛭・蟇・蝙蝠・猿など)登場しますが、この物語を読み終えたとき、この句の一匹の高野聖(たがめ)が一言「如何でした」とつぶやいて雨の水に消えるのです。それはあたかもこの物語から抜け出した高野聖のよう】。

龍吉さんの田鼈を詠んだ句で、もうひとつ、茨木和生の『西の季語物語』に匹敵する名エッセイ『[歳時記風に]けせんぬま追想』を三陸書房の『オリーブ』に連載している菊田一平さんの【天牛】の一節を引いてみる。

【  抱きついて高野聖は獲物とる 馬場龍吉

この「高野聖」は、池や沼にすむ水生生物の「たがめ」の別名です。ほかにも「どんがめ」「河童虫」と呼ばれることがあります。「たがめ(どんがめ)が抱きついて獲物とる」としたのでは面白くもなんともありません。たんに「たがめ」の習性の説明です。高野山の寺塔修理費を募るために、諸国を回る「聖」が「抱きついて……」と詠んだからこそ、背筋をぞくぞくっと「戦慄が走る」句になったのです】。

以前、【夜空より山が黒いよ蚊喰鳥】を詠んで、龍吉さんは「蚊喰鳥杜庵」と呼ばれていたが、いまは「たがめの龍吉」と呼ばれている。



さいばら天気 -------------------------------------------------------
夏 の 川 ゴ ー ル デ ン タ イ ム ち ら ち ら す   こしのゆみこ

ゴールデンタイムとは微妙である。いまなら「ゴールデン」と略して、テレビの中で外で、みんながみんな「業界関係者」のような口ぶり。かつては違う。「ゴールデンタイム」という不思議なカタカナ語で通っていた。

映画が娯楽の中心だった時代を私は知らない。子どももおとなもラジオを聴いていた時代も知らない。けれども、テレビなら知っている。物心つく前にテレビが我が家にやってきて、小学生だった私は、本やマンガを読んだり山で蝉や兜虫をつかまえたりごっこ遊びをしたりするのと同じノリでテレビにかじりついては叱られた。日本が中途半端に貧しかった時代。その前の世代はきちんと貧しく、そのあとの世代は貧しくなんかなかっただろう。そうした中途半端さ加減の微妙さでもあるのだ、ゴールデンタイムという語のもつ微妙さとは。

この句の「夏の川」は、家と家が寄り添うなかを流れる川だ。俳句に多く詠まれる「夏の川」とはずいぶんと趣が異なる。7時台、8時台、日が落ちて間もない、夜が始まったばかりの時間。この川には、なんだか妙なゴミも浮いていそうだ。そして「ゴールデンタイム」という素っ頓狂な呼称を与えられた「時間」がちらちらとする。

この句は普遍的ではない。固有の世代、固有の生活者の痛点をついてくる。普遍的な句はエラい。みんなが褒めそやす。この句はエラくない。褒められようともしていない。けれども、私がなんの拍子か深く愛してしまうのは、こんな句だ。

この句を読むとき、あがた森魚の「テレヴィジョン」という曲を流してみてほしい。まあ、CDやレコードをもっている人に限られるだろうが、ぜひ。すると、そこいらじゅうが「ちらちら」するはずだ。



上田信治 ----------------------------------------------------------------

風 の 百 合 あ つ と い ふ ま に 蝶 に か な   馬場龍吉

詩的な語り出しから、俳諧テイストたっぷりに展開し、終わってみれば、口の動きの気持ちよさだけが残るという、珍なる季語をふくらましてつくった、お菓子のような句。


対 岸 に 人 の 落 ち て る 日 永 か な   雪我狂流

「対岸」と「日永」にはさまれて、ふつうのいい景色。ところが、作者は、読者が予期する俳句的言い方から、つるりつるりと逃げていく。そこに声とでも、言葉の質感とでもいえるようなものが、生じている。

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