2007-08-12

週俳7月の俳句を読む(下) 1/3

週俳7月の俳句を読む(下) 1/3

媚 庵 「三 汀」10句   →読む 菊田一平 「オペラグラス」10  →読む
田中亜美 「白 蝶」10句  →読む 鴇田智哉 「てがかり」10  →読む
佐山哲郎 「みづぐるま」10  →読む
寺澤一雄 「銀蜻蜒」50句  →読む
村田 篠 「窓がある」10句  →読む 山口東人 「週 末」10  →読む
遠藤 治 「海の日」10  →読む


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石原ユキオ 



夕 立 の す ぎ た る 空 に 窓 が あ る  村田 篠

夕立のあとの空にビルがあってビルには窓があるんでしょう。
それか、夕立のあとの空にビルがなくて、いきなり窓が浮いているんでしょう。
「窓がある」ってなんかひっかかるんですよ。
「窓がある」って響き、「バドガール」に似てません?
夕立のすぎた空。両手にジョッキ持って闊歩するバドガール。
まさに「高気圧はヴィーナスたちの交差点」って感じ!(c)桑田圭祐
夏だね! うほーい♪



サ ボ テ ン や 仏 の 顔 が 玄 関 に  山口東人

ガンダーラ様式の仏頭の置物とか、パーティグッズの大仏のかぶり物だったら面白い。
でもたぶん京都とか奈良のお土産の、能面状の仏の顔がついてる壁掛けなんじゃないかな。
サボテンと仏の顔がある玄関。なんていう趣味の良さなんでしょう! 不気味です! キッチュです! 最悪です! こういうお宅大好きです!



少 年 が 必 ず 落 ち る ゴ ム ボ ー ト  遠藤 治

やばい。少年かわいい。
少年、ふざけてて落ちるんだよw
少年っつうか、むしろ「男子」でしょ!
梅佳代ちゃんの写真みたい♪

別解)
その浜辺には伝説のゴムボートがある。
シーズンオフまでびっちり予約が入っているという。
予約するのは決まって少女だ。
なんでも、そのゴムボートに意中の少年と乗ると、必ず恋が成就するのだという。
「必ず落ちる」みたいな。(シャレかよ!)



心 臓 が 止 れ ば 死 体 サ ク ラ ン ボ  寺澤一雄

「心臓が止まったら死体だなぁ」っていうなんとなく中高年っぽい感懐なのかなぁ。
でもそれにサクランボを取り合わせてあるあたり、なにやら普通じゃない雰囲気。
死体にサクランボが添えてあるみたい。
「心臓」「死体」「サクランボ」って道具立て、ゴシックロリータ的でかわいくないですか?
ってか寺澤さんの句って、あったり前のことが書いてあると見せかけてどこか不穏なズレ方をしてて、面白いっす! ラブです!!



白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 咲 き に け り  田中亜美

花は植物の生殖器なわけです。
レディスコミックなどではいまだに花が外性器のメタファとして使われてたりするわけですが、この句は外性器通り越して臓腑。
エロス飛び超えていっそ爽快。潔い。



て が か り に な る 木 耳 が つ い て を り  鴇田智哉

あのぺっとりしたキクラゲならたしかに、どこかにくっついたりして手がかりとして残りそう。
って何のてがかりになるキクラゲがどこにくっついてるんでしょうか。
わざと書かなかないでおいたから、想像してね! っていうことですよね。

想像1「貝塚で発見された木耳が古代人の生活を知る手がかりになりました」
想像2「事件解決の糸口になったのは被害者の傷口に付着していた一片のキクラゲでした」
想像3「夫のYシャツについていたキクラゲで浮気を確信しました」
想像4「キリストとヨハネの間の空間がキクラゲの形を表しています」
なんとなく3が正解に近い気がしますがいかがでしょうか。



摩 訶 サ ラ ダ 朝 か ら だ 薔 薇 あ ら は か な  佐山哲郎

無理矢理口語訳してみました。
「なんて素敵 朝だから サラダも からだも 薔薇も 生まれたてのまっさらだ♪」

「あかさたなはまやらわ」をベーストラックに夏の朝の風景をサンプリングしてリミックス。
ぴこぴこひゅんひゅんしててかわいい。



箱 庭 の フ ィ ギ ュ ア 置 き 変 へ 太 宰 の 忌  媚庵

卒論テーマは太宰でした。誕生日が同じ、という理由だけで太宰を選んだのが間違ってました。太宰ばっかり読んでて鬱になりかけました。この「箱庭」って、絶対箱庭療法だと思う。
全国の太宰読者のみなさん、どうかお大事に。



啜 り た る 枇 杷 の 滴 が 枇 杷 の 上  菊田一平

もっときれいに食べてよ!
あたしが食べれんくなるじゃろー!
お父さんのばか――――――――!!



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橋本喜夫  



せ り あ が り く る や う 日 盛 り の 水 は   村田 篠

夕 立 の す ぎ た る 空 に 窓 が あ る

10句を拝見して、この作者は簡明な言葉で、季語と自分の感覚をうまく取り合わせているように思う。したがって、一見とても簡単な俳句のようで、作者独自の皮膚感覚、温度感覚、聴覚などが従来の季語の捉え方と微妙にずれており、それが詩性を生み出している。逆に非常に簡明な表現ながら、具象の景色としてはきちんとピントが合ってこない。

一句めは中七までの句またがりで、夏の蒸し暑さが感じられ、日盛りの水が、夏の川なのか、海なのか、水道水なのかは作者の読みに委ねられる。いずれにしろ夏の水位が上がる体感感覚を表現したいのだと思う。

二句めは窓があるの座五の措辞でピントをずらしている。夕立のすぎた後の空のすがすがしさの体感感覚を、窓から見える光景なのか、ガラス窓の冷たさなのか、空そのものに窓があると捉えたのか、やはり独自にピントをずらしているのである。



レ ー ス の カ ー テ ン 挟 ま つ て ゐ る 脳 裏   山口東人

土 用 凪 木 の 電 柱 に 蓋 が あ る

10句を通じて、国籍不明、少し川柳的(川柳が悪いという意味ではありません)、現代俳句協会的(有季定型にこだわらず、花鳥諷詠もよしとせず、言葉の喚起力で勝負するという意)つくりの句が目立つと思う。

一句めは解釈が難しいかもしれないが、私は脳裏にある夏場の不快感ではなく、むしろ脳味噌の中を流れる涼しい感覚を詠んだと私は捉えた。左脳と右脳を分ける脳梁をレースのカーテンが挟まると捉えたという読みも成立して、面白い。

二句目は夏の蒸し暑さと、コールタールの匂いを彷彿させ、土用凪の季感がよくでている。昔の木の電柱の頂上には確かに蓋のようなものがあり、そこから電線が繋がっていたと思う。そういう意味では写生しているのか。それとも「蓋がある」の措辞は土用凪の感覚をメタファーしたのであろうか。



お よ そ こ の 世 の 甘 き 香 を 日 焼 止   遠藤 治

苔 藻 な す ブ イ や 深 ま る 潮 の 色

すべて海に関連した10句で、テーマ性を守った句作りである。全体に重い季語を用いずに、季語そのものを題材にして、軽く、しかも揶揄的に詠むことがうまい作者である。

一句めは日焼止という新しく、あまり詠まれない題材を詠んでいることに着目した。世の中の甘さ、軟弱さ、それを使用する若者(男女を問わず)の甘さ、香りとしての安っぽい甘さ、すべてを俗っぽい日焼止が受け止めている。一級季語ではない日焼止がここでは堅固に機能していると思う。

二句目はブイが浮いているので、ある程度沖合いである。ブイに苔藻がついて、夏も深まった感覚がある中、潮の色も蒼く深まっていた。微妙な季節感覚も十分表現できている。



ざ り が に の 鋏 の 力 抜 い て を り   寺澤一雄

山 椒 に 舌 が 痺 れ し 祭 か な

扇 風 機 売 り 場 か ら い ろ い ろ な 風

大 蚯 蚓 伸 び 切 つ て を り 進 ま ざ る

理 髪 屋 の サ イ ン ポ ー ル に 西 日 か な

心 臓 が 止 ま れ ば 死 体 サ ク ラ ン ボ

50句全体に、テーマ性は無関係な作り。それはそれでよいと思う。この作者は日常生活の中で、題材の切り取りかたがうまく、広い意味で社会性(政治的意味でなく)があり、ものの見方は少し川柳的かもしれない。作者なりの季語のずらした捉え方、作者ならではの写生もあり、楽しめた。季語の本意からすこしずらした句作りは、季語の焼き直しにすぎない句もみうけられ、それが少し残念である。

ざりがにの句は新しい写生とも言えるし、諧謔がある。祭の句も無理がない。扇風機の句も誰も気づいてはいたが、誰も詠んでこなかった景ではないだろうか。蚯蚓の句も「進まざる」の座五で、蚯蚓の今後の消息を不明にしたところが面白い。サインポールの句も新しい視点だし、西日が三丁目の夕日を彷彿させ、なつかしい。心臓の句は中七までの断定とサクランボの離れ具合がよく、サクランボの色、形がまさにハートに見えてくるのがおかしい。



し づ か な る 拳 緑 陰 過 ぎ る 鳥   田中亜美

息 止 め て し ま へ ば き っ と 踏 ま れ ぬ 蟻

季語を用いて現代詩的味付けをした10句である。ニ物衝撃(とり合せ)が主な手法であるが、全体に難解な句と思う。簡単に言えば離れすぎなのか。意味はわからなくてもいいのだが、12音までの措辞は喚起力があるが、季語とぶつかって化学反応をしていない感がある。

一句目は、緑陰にいてひそかに拳を握りしめている作者(発話者)がいる。そこを鳥が過ぎていった。それだけの句であるが、心に残る。

二句目はどこで切れを入れるかで、解釈が異なるかもしれない。一物仕立ての句と捉えると、蟻がいる。作者は蟻に同化して、息を止めて立ち止まっている。息さえ止めれば踏まれないですむ。自己の閉塞感を蟻に託したといったら句がつまらなくなってしまうかもしれない。この魅力は、息を止めてしまえば、踏まれないという不条理な論理であろう。



が が ん ぼ の ぐ ら つ き な が ら ゐ る ば か り   鴇田智哉

ま う へ か ら 滴 の 落 ち て 蛇 が ゐ る

この作者らしい世界を現出した10句である。骨格がしっかりしているわけでなく、テーマ性があるとは思えず、特異な文体があるわけでなく、平明な言葉で、季語を十分生かして10句すべてに読み手を首肯させる不思議な力を持っている。切字でいうと 「かな」、「をり」、があるが、「けり」、「や」と言った強めの切字を使用しないのが特徴か。とにかくこの不完全燃焼性が魅力の句なのだ。

一句目、ががんぼの見立てとしては決して斬新ではないが、座五の「ゐるばかり」がいい味を出している。

二句目は真上から滴が落ちているのがわかるのは蛇自身である。はじめは水滴が滴る木の枝、葉先でもいいが、そこにクローズアップして、突如カメラアングルは下から見上げた蛇の視点になる。その滴が真下の蛇の頭に垂れて、ことの一部始終を見ている作者が出現するというロングショットに切り替わる。



あ 橋 の 風 夏 内 耳 み づ ぐ る ま   佐山哲郎

籐 椅 子 の を ん な 魚 の 卵 抱 く

俳句の新しい試み、たとえば無意味性の追求と、心地よい言葉遊びの追求などを感じさせる10句で、楽しく読んだが、口誦性という意味では成功していないのではないか。一句目はその中でも比較的口誦性も生じやすく、音調の整った句で、一見無関係に羅列した言葉がそれぞれ繋がるように意図されている。橋の上の涼風のすがすがしさも感じられ、それが内耳でも風が吹いているように読める。内耳→蝸牛管→渦巻き→みづぐるま と連想される。

二句目はシュールである。籐椅子のをんな で切れて、魚の卵抱く。これも女→人魚→魚卵→卵巣→女と戻ってくる連想。勿論、籐椅子に坐っている女が魚の卵(たとえばイクラ)を抱いているという奇妙な景を想像してもいいはずだ。



年 金 を 確 か め に 行 く 夏 帽 子   媚庵

度 の 強 き 眼 鏡 の 人 や 竹 床 几

猫 町 に ま ぎ れ こ み た き 西 日 か な

10句全体に、よい意味で文人俳句の匂いがする。描く世界は独善的であり、文学的である。その中でも一句目は今が旬の句であるが、夏帽子のさりげない置き方がよい。サングラスならどぎついし、白靴なら怖いし、甚平なら作り過ぎだし、藍浴衣なら信憑性がない。

二句目はさもありなんという登場人物であるが、いままであまり俳句にされていないキャスティングではないだろうか。猫町も架空の町の名か、だれか有名な文人が住んでいた町かは知らないが、作者は猫町にさす西日になりたいのである。または猫町にまぎれこみたいのである。もちろん、猫→まぎれる と連想が起こり、重層性がある地名である。




ニ ッ ケ ル の 灰 皿 重 ね 太 宰 の 忌   菊田一平

つ ゆ 寒 の ひ け ば か た か た 厨 紙

さ み だ る る わ け て も そ ね さ き あ た り は も

10句ともそれなりに、楽しく、また私の狭量な俳句選句基準でも解りやすい句が多かった。解りやすいというのは、良い句であると自分が感じたという意味である。それをうまく説明できるかどうかは別であるが……。

太宰の忌の句はたくさんあるが、ニッケルの灰皿という小道具がうまく嵌った句と思う。いやみではなくうまい句。

二句目はつゆ寒のもの憂い感覚が共感できるし、紙が水分を吸って重くなり、ひくときかたかた鳴りやすい。これも何と信憑性のある句であろうか。信憑性とは事実かどうかは関係ない。

三句目、散文で言えば、五月の雨がふっている、特に曽根崎あたりでは……。ただそれだけなのであるが、やはりこの句の良さは曽根崎という地名の選択、すべてひらがなという技巧、音調の良さ、「わけても」と最後の「はも」の措辞の旨さにつきる。わけても曽根崎という読み手の頭の中のどこかにひっかかっているが、それほど有名すぎない地名を選んだ手柄であろう。





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中村安伸 




●媚庵「三 汀」

「林房雄」「久米三汀」「太宰」「満州」といった「昭和初期」的なものを感じさせる固有名と「年金」「ビリー」「フィギュア」という現代風俗を代表する語がない交ぜになっているのだが、そこに違和感はなく、軽妙で飄々としたトーンは一貫している。
どちらかというと、ビリーやフィギュアが昭和初期の風景のなかにとりこまれてしまっているような感覚である。
季語の選択、とりあわせが順接的であり、意外性がないのがひとつの特徴だが、意図的に意外性を排除しているといったほうが当たっているだろう。

年 金 を 確 か め に 行 く 夏 帽 子
帰 省 子 の 渡 り 廊 下 を 渡 り け り

これら二句には実に淡々としたユーモアがあり、

猫 町 に ま ぎ れ こ み た き 西 日 か な
満 州 の 佳 人 の ご と き 日 傘 か な

これら二句には、夏の爛れた光のなかに浮かび上がる懐旧の念がある。



●菊田一平「オペラグラス」

句のなかの作者の立ち位置という点に注目してみると「青水無月」「つゆ寒の」「啜りたる」といった客観的な句と、「さみだるる」「東京の」「南風」といった主観的な句がバランスよく配置されている。また音韻に対して繊細な目配りがある。

豆 ご は ん 厨 揺 ら し て 噴 き 上 が る

この句のなんとも痛快な誇張表現に惹かれる。

夏 至 の 日 の オ ペ ラ グ ラ ス に 嘆 き の 場

この句は舞台芸術を主題に、なかなか複雑な構造をもった句である。屋外にはボリュームたっぷりの夏至の光。それとは別に屋内のくらがりで展開される愁嘆場。その対比の妙。

月 見 草 お ー い お ー い と 手 を 振 れ り

さきに「太宰の忌」の句があることにひきずられたのか『富嶽百景』のラストを思った。人物が消え富士だけが映る写真。
この句には書かれていない富士がある。



●田中亜美「白 蝶」

非常にきっちりとした定型感に支えられた文体で、やや生硬に感じるほどである。

白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 咲 き に け り

白という色がもつ過剰な光量のなかに、自らを曝け出すということ、それは大きな痛みをともなう行為だろう。この句に代表されるように、自分自身の「臓腑」を晒しつつ、それを見つめ続けることによって、作者は強さと深さ(幅の狭さにつながっているとしても)を獲得していると思う。また、心の痛覚を研ぎ澄ますことと、情に流れることを拒む理性のはたらき。そのふたつのバランスがとれているかどうかによって、作品の出来、不出来が左右されているように感じる。

帆 船 は 祈 り の 位 置 に 夕 薄 暑

この句の「位置」という語のはたらきに、感性と理性のバランスを感じるのである。

白 き 砂 利 心 臓 に し て 金 魚 か な
白 日 傘 真 空 管 と し て あ ゆ む

これらの句の「真空管」「心臓にして金魚」といった喩には鋭利な感覚がはたらいている。



●鴇田智哉 「てがかり」

紫 陽 花 の 火 照 り が か ほ を う つ ろ へ り

繊細な皮膚感覚を発揮した作品である。

第一句集を読んで、この作者の作品には、文体のやわらかさに加え、独特の空気感があることを感じた。今回の作品群についてみると、昆虫やちいさな植物、それらの微細な動揺をとらえる視線、表記のバランスへの気配りなどに、作者の嗜好や特徴があらわれているといえるだろう。

しかし、空気感については、以前の馥郁としたものとは幾分違う、やや乾燥したものを感じる。その印象のよって来るところを考えてみると、理性的な表現が多いということに思い当たる。それは、ほとんどの作品が一句一章で仕立てられていることと無縁ではなく、「ほとんど」「のなかを(~来る)」「(昨日)のままの」「(ゐる)ばかり」「てがかりになる」といった抽象的な語の多用とも関連しているだろう。



●佐山哲郎「みづぐるま」

実験的要素の強い作品と、詩的な定型作品の両者がバランスをとって配置されている。
音韻的なつらなりによって引きだされた語と語のとりあわせがもたらす、詩としての衝撃というところを狙っていると感じる。

あ  橋 の  風  夏  内 耳  み づ ぐ る ま

この句には、瞬発的なイメージの連鎖、あるいは断片的であると同時に全体的な景がある。そこには視覚だけでなく、音や匂いや温度までもが浮かび上がってきて心地よい。

摩 訶 サ ラ ダ 朝 か ら だ 薔 薇 あ ら は か な

この句を支配しているのはやはり音韻であり、それぞれの語は、踊りながら手を翻すダンサーのように、リズムに乗って意味のうらとおもてを見せてはかくす。



●寺澤一雄「銀蜻蜓」

多彩なアイデアに満ちた作品群である。アイデアとは、言い換えれば意外性ということになるだろうか。適量の意外性を含んだ句は実に魅力的である。余分な解釈を加えることなく、惹かれた作品を掲出するにとどめたい。

万 物 に 石 を 見 立 て る 夏 休 み
夕 空 は 気 ま ま な も の や 青 簾 
戦 艦 に 無 数 の 漕 ぎ 手 い ま は 急 き
燃 え 尽 き て 蚊 取 線 香 渦 残 す
理 髪 屋 の サ イ ン ポ ー ル に 西 日 か な
夏 草 が 土 俵 の 中 を 埋 め に け り



●村田 篠 「窓がある」

一句一章の文体で詩的なイメージを丁寧に叙述した句が多い。静謐な空気感のなかをかろやかに移動してゆくなにものかをとらえる視点と、ゆるやかな調子がマッチしていると感じる。

音 楽 の 流 る る ま ま に 浮 い て こ い

「浮いてこい」という季語の面白さ。浮き人形や物理の実験に使われる浮沈子のことだが、命令形の台詞が名詞に転化された珍しい語である。それをたくみに用いて独特の諧謔を実現した句は古今少なくない。この句の場合は、その浮遊感を音楽(ウインナワルツ等であろうか)の律動感にシンクロさせて巧みである。

夕 立 の す ぎ た る 空 に 窓 が あ る

はげしい雨によって掃き清められたような夕空を窓越しに見る。「窓に空」でなく「空に窓がある」としたことによって、句の内包する世界がひろがる。空に窓枠を描いた、安いシュールレアリズム風絵画を想像してしまってはよろしくない。



●山口東人 「週 末」

景の明確な人事句が多いが、そのなかに

レ ー ス の カ ー テ ン 挟 ま つ て ゐ る 脳 裏

といったシュールレアリズム的な句が唐突にあるのが面白い。

分 身 の や う な 冬 瓜 も ら ひ け り

「分身のやうな」という喩が「冬瓜」の独特な存在感を裏から描いたようで秀逸。



●遠藤 治 「海の日」

海水浴場の景を描いた連作だが、文体はなぜか、大正から昭和初期の俳句を思わせるところがある。

お よ そ こ の 世 の 甘 き 香 を 日 焼 止

という句は、本歌取りと言えるかどうかは微妙だが、虚子の「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣でけり」をふまえてのものであろう。

海 の 日 は 母 の 始 ま り 天 使 舞 ふ

という句はなかでも印象的である。
中世の西洋絵画がひとつの静止画面に無理やり物語を埋め込んだように、俳句という瞬間的な詩形にひとつの物語を語らせようとしている。成否はともかく試みとしては面白い。

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