2007-08-19

「愛」のあと

「愛」のあと
なかはられいこ「二秒後の空と犬」7句 大石雄鬼「裸で寝る7句   →読む


大石雄鬼


「愛」というテーマでの作句。困ったなあ。誰もがそうであるように、たしかに生まれてこのかた、「愛」というものにいつも何らかの形で関わってきたが、それをテーマにして俳句を作るとなると、さてどうすればよいか。まあ、恥ずかしい。それに、俳句を作り始めてから、「テーマで俳句を作って、発表する」などということを一度もしたことがない。一句への集中以外に、作品群のテーマ性、全体の方向性など、今まで考えたことがない部分に気を使わなければならない。ということに悩み、そして、結局、あきらめた。

なかはられいこさんの作品。正直言って、よくわからない句もあるのだが、その自由さにちょっと驚いた。というか、自分の俳句の不自由さに驚いたという方が正しいかも知れない。自分の句を見ると、景色にしよう、しようという意識が強いことに気づく。俳句への切り取り方が、とても額縁的である。いつも、四角にしようとしている。だから、類想性を意識せねばならず、結局類想性がまつわりつく。

一方、なかはらさんの作品は、切り取り方が自由だと感じた。額縁的な切り取り方をしていない。その形は、自由、というより切り取る形そのものを意識していないように見える。

  ち ゅ う ご く と 鳴 く 鳥 が い る み ぞ お ち に

  い ま 視 野 を か す め て い っ た も の が 愛

  二 秒 後 の ワ タ シ に 水 の 輪 が 届 く

  隙 あ ら ば ふ た り で つ く る ふ か み ど り

私が、私なりに理解出来たのがこの4句。ほかの3句はその句意が、形がどうにもわからなかった。それは、私の理解の仕方が、景色、姿として捉えようとしていることによるからであろう。この4句は、それでなんとか捉えることができる。

わからないほうの3句。

  空 と 犬 と ち く わ が 好 き な ぼ く の 女 神

  母 さ ん は す で に こ こ ま で 紅 し ょ う が

  や く そ く の 木 綿 豆 腐 を 持 っ た ま ま

となると、どうしてよいかわからなくなる。そのまま受け取ればよいのだ、という声も聞こえるようであるが、しかし、それでは私の気持ちが落ち着かない。その落ち着かない気持ちは、もちろん私の詩への感受性のなさ、理解力のなさによるものだろうけど、俳句に長く関わることによって得てしまった習性によるものかもしれない、とも思うわけである。

17音という景色の形に切り取り、そして伝えようとするのか。自分の意識を17音というものに(形にこだわらず)切り取ろうとするのか。川柳とか、俳句とかではなく、「愛」のあと、そのようなことを考えはじめている。





なかはられいこ

テーマは「愛」ときいた瞬間、かたまりました。そして二秒ほど後、ぎゃーっ!!と叫んでのけぞりました。俳句や川柳に携わっているひとならばおのずとおわかりのように、困ってしまうテーマではありました。ところがじたばたしたわたしとは違って、大石雄鬼さんの七句は、あまりにすずしい顔で並んでいて、筋力のある俳人だなあと感じました。

  蝸 牛 の 肉 の 透 け い る 愛 が あ る

「かたつむり交めば肉の食い入るや(永田耕衣)」を下敷きに書かれたのでしょうか。耕衣の句にある、エロティックな生々しさがないかわりに、精神的なというか、スピリチュアルなかたちの「愛」が書かれているように思います。それが俳句という形式の特質なのか、大石さん個人の資質なのかはわからないけれど、「愛」というものの持つある種の生々しさを回避するような傾向は、ほかの作品にもほのみえて、

  愛 の 巣 の パ イ ナ ッ プ ル が 立 っ て お り

この作品など、「あいのす」と「あななす」という<音>に位相をずらすことで意味よりも映像が先立ち、不思議な効果を発揮していると思いました。「エンジンの音」と「燕の子」、「如雨露」と「自閉」、「大花火」と「財布」など、人工的なモノと自然(季語)との取り合わせから推察すれば、俳句音痴なわたしの目には大石さんはどちらかといえば正統な作風の、筋力のある俳人にみえるのですが、どうなんでしょう。

同じフォルムを持つ俳句と川柳ですが、一句ずつ並べたときには淡くてあいまいな差異も、こうして七句ずつ並ぶとすこし見えやすくなりますね。近くて遠い関係がずっと続いてきた俳句と川柳。もっと交流がさかんになれば見えてくるものがあるのではないかと思っています。



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