2007-09-30

『俳句』2007年10月号を読む 上田信治

『俳句』2007年10月号を読む ……上田信治




●大特集「作句上の危険な勘違い」 p59-

○月×日 編集部からの依頼文をあらためて読む。
《写生の意味を取り違えた句、単なる報告でしかない句を例としてあげ、その間違いを……》「写生の意味を取り違え」という言葉はすでに一つの見解を示しており、正直困惑してしまう。

(二村典子「見たままを詠む勘違い 途方にくれつつ」)

一般に「編集部よりコレコレの依頼を受け、はたと考え込んだ 」というようなことを書くと、それこそ「短文執筆上の危険な勘違い」と言われてもしかたのない、シロウトくささを発生させます。

しかし上に引いた一節は、編集部の想定する到達点を、ごまかしてでもカマトトぶってでも、越えようとする意志を感じさせて、好ましい。

○月×日 よく見る。じっと見る。そうすると、ものの本質が見えてくるのだろうか。(…)人によって見方が違うというのはよくわかる。人によって見え方が違うということは? むしろ、同じように見えるという前提で俳句を作っていることの方が多いような気がする。
一卵性双生児の息子たちを見間違えたことなどなかった。けれど、二人の幼いときの写真を見て愕然とした。どちらがどちらかわからない。

(同)

「見たまま」(という認識)のつかみがたさ、という話になっていますが、仲間うちの句会で出た句の、どこがまずいか、という話よりは、よほどおもしろい。

俳句を書くことが楽しくてしょうがないうちは、俳句を書くことがたとえば働くことと同じように空しいことであることに気がつかない。

(依光正樹「述べ過ぎる勘違い 俳句意識と宇宙意識」)

「あー、こんなに苦しいのに、書いてるときだけは、楽しいっ!」という、悲鳴のような述懐を聞いたことがあります(言ったのは、「どプロ」と呼ぶべき、他ジャンルの職業作家)。

書くことが働くことと同じように空しいと感じるのは、ひねたアマチュアか、まちがってプロになった作家ではないでしょうか。

いや、まあ、依光さんは、総合誌は指導の場と割り切って、ちょっとマッチョなポーズで初心者をおどしているだけなのでしょう。最終的に、とても良いことを言って、終っている文章なので。

〈牡丹雪工場の灯が夢の灯に 佐藤裕〉
一方で若いがゆえに言葉が紡がれたと思う句もある。この句の下五のように「言ってしまわなければ消えてしまう詩」もあるのではなかろうか。(…)牡丹雪の句は、俳句を作りつづけることのたいへんさを知る前の作者が、知ってしまった作者に照らしかける夢の灯であることに、あなたはお気づきだろうか?

(同)


●「くびきから放たれた俳人たち(10)櫂未知子」小川軽舟 p118

以前、この連載について「櫂未知子についての回(とうぜん、あっていいと思う)が、楽しみでなりません」と書きました。「楽しみ」というのは、どこかで、論争的というか議論の分れる領域にふみこんだ内容を、期待していたわけですが。

筆者は、〈シャワー浴ぶくちびる汚れたる昼は〉〈ぎりぎりの裸でゐる時も貴族〉などの第一句集『貴族』を「あの時代(バブル末期)のせつなさがにじんでいるような気がする」と書き(ほんとかな? でも、おもしろい)、第二句集『蒙古斑』より〈啓蟄をかがやきまさるわが三角州(デルタ)〉などを引き「平成の俳句に新しい波が押し寄せた衝撃を覚える。」と書きます。とちゅう「父の死」や「水中花」騒動にも触れ、近作〈海流のぶつかる匂ひ帰り花〉〈地吹雪や蝦夷はからくれなゐの島〉について「堂々たる秀作だが、名前を伏せると櫂の作品だと分らない。櫂がさらにスケールの大きな俳人になるための過程なのかもしれないが、櫂にはまだまだぎらぎらとした抜身の危なさで、現代というやっかいな時代と切り結んでほしいと切に思う」と、小さく希望(注文)を添えて終る。これは、もう、ザ・紹介記事とでもいうべき、バランスのよさです。

ここまで目配りよく書かれると、かえって、作家・小川軽舟がこれを書く理由が分らなくなってきて、「櫂未知子の充実によって照らし出される、同時代俳句の問題点や如何」というような、無いものねだりをしたくなる。

いや、それは、最終回に提示されるであろう、まとめ(とうぜん、あっていいと思う)に、期待しましょう。

●今月の好き句

斧斤入るるべからず睡郷は秋   宇多喜代子
梅雨明のみづうみ自転車がふたつ 中岡毅雄
鶏頭の影どん底に並びゐる    〃
刈田ゆく列車の中の赤子かな   高柳克弘

あと、九堂夜想さんの「スフィンクス」。ちょっと1句をとりあげにくいのですが、8句からなる一連に、ぜんぶ長々しいカタカナ語が入っていて、ページのパッと見が違うだけで、読む気になったのだから、まずは成功だと思います。

古る街へサフランライスさらさらす 九堂夜想





1 comments:

匿名 さんのコメント...

遅まきながら2008年7月なって依光の俳句意識と宇宙意識(2007年10月俳句掲載)を読みました。{人生の若造、俳句のみでの先達}の思い上がった評論ですね。彼の「宇宙意識」なるものについて何一つ説明していません。肝心なことは「ざるそばをそれぞれつけて一家族」で致命的な解釈の誤りをしています。「つけて」をつゆにつけると誤解しています。この句では食事の最後で一品追加することを意味します。「夫々追加したところ同じざるそばになった、やはりおなじ家族だなア」と同じ号の平成俳壇辻桃子トップ推薦「水飯と意見まとまる昼餉かな」に通じる俳諧味のある句です。ざるそばを同じつゆで食べる家族とされたのでは、作者にはお気の毒です、同情申し上げます。 我見庵