2007-09-02

『俳句界』2007年9月号を読む 五十嵐秀彦

『俳句界』2007年9月号を読む ……五十嵐秀彦




先月号については「うしろから読む」という意地の悪いやり方だったので、今月はまともに最初から読んでみた。

とはいっても非常に盛りだくさんなので、まずは特集ページを開く。

「初秋特集」というかなりアバウトな企画タイトル。それがさらに「リリカルな虫たち」と「懐かしの村祭 在祭 里祭」の二部構成に分けられている。

「リリカルな虫たち」の戸邊喜久雄の「鳴く虫、虫の闇」は、コオロギやスズムシ、邯鄲の生態だけではなく、ケラにも触れ、石垣島ではケラがニーラ・コンチェンマ(地底の世界の姉さんの意)と呼ばれていることや、地下の世界の神意を占う存在であったことなどが紹介されていて面白かった。

また、日本在住の米人作家アーサー・ビナードと、詩人で作家の西沢杏子の対談「虫語で話そう」も興味を持って読んだが、途中でマニアックな虫談義になってしまったのは残念。終盤の虫の俳句に関する話題は良し。ここをもう少しふくらませてくれれば、という思いと、できれば英米文学における虫の扱いについても少し取り上げてほしかった。

もうひとつの特集「懐かしの村祭 在祭 里祭」の宮坂静生の「わが愛する祭 序説」では、沖縄など各地の祭が紹介され、その中で、農耕儀礼以前の祭を推測させる祭として、諏訪地方の御頭祭が取り上げられていたのには注目した。

日本の祭というと、つい農耕文化との関係にばかり目が行くが、けっしてそればかりではない。《かつては真名板の上に鹿の生首を七十五並べて祝った。生きた雉も神饌に供された。祭神に仕える「神使」と呼ばれる、紅の着物を着せられた八歳くらいの童を御贄柱に殺した》という記述には驚いた。もっと多くの知られざる祭についても知りたくなる優れた論考である。



さて特集についてはそのへんにして、俳句作品を見てみよう。

今月もたくさんの句が掲載されているので、面白いと思った句のみ挙げておく。

血流さず揚羽死にをりマリア月      岡崎光魚

丸ごとのトマトをかじり裏切られ     赤尾恵以

山系を遁げだす吾ら鰯雲         山口剛

すかんぽと潮騒つきの空き家かな     波多江敦子

青嵐灰から拾ふ喉仏           村上護

ほうたるのあやに飛び交ふ多恨の闇    村上護

向日葵の途中の高さかもしれず      満田春日

朝顔や戸は西南す君子の家        高山れおな

花菩提樹(リンデン)に芳香を放つ自由あり  中原道夫

総合誌なので、さまざまな人の句が毎月載る。そして、その選択の企画なり意図なりについていろいろと言う人もいるようだが、こうして掲載句を全て読んでいると、俳句を読むことの楽しさについてあらためて考えさせられた。

別に作者名など無用であるのかもしれない、とさえ感じた。

当たり前のことを言うなと叱られそうだが、俳句を読むことは楽しいことだ。



『俳句界』の企画の中で、これまで触れなかったが、「四百字手書きエッセイ」は毎月楽しみにしている。今月は大峯あきら、矢島渚男、森村誠一。それぞれの癖が出ている肉筆原稿を見るのは愉快だ。

活字というものが、一度変換されたメディアだと思うと、手書き文字というストレートな作者からのメッセージの視覚的意味はけっこう大きい。



坂口昌弘の今月の「ライバル俳句史」は「鬼房と敏雄」。

二人とも好きな作家なので、しっかりと読ませてもらった。

坂口は「俳句の永遠性」を切り口としてこの二人を論じる。

筆者は俳句作品に見られるタオイズムやアニミズムについて強い関心を持っているようだ。そこにやや強引な印象を受けないでもなかったが、次の記述などには共感した。

 毛皮はぐ日中桜満開に   鬼房

《花が咲いている日中に山に入り動物を殺し、毛皮をはぐ仕事をしている人がいるということを詠む。会うことのなかった祖父はまたぎであったという。「私の心のなかには常に山河が住んでいる」とも言うが、風土といい山河という心の中には歴史の中で流された祖先の血と霊がある》

 草荒す眞神の祭絶えてなし   敏雄

 絶滅のかの狼を連れ歩く    敏雄

《真神の祭が「絶えてなし」という作者は狼を神と思い、祭りの復興を思い、俳句が護符のようなものと思っていた。「神在れよ」と敏雄が二十歳のころ詠んだ心が「眞神」の句にも流れている》




澤好摩の「俳句界時評」は「特集・二十代三十代の俳人、ほか」。

「澤」の創刊七周年記念号の特集内容を紹介している。

「澤」以外から13名の二十代三十代作家に俳句・評論を書かせるという結社誌としてはユニークな内容に、それは本来であれば総合誌がしてしかるべき企画だろうと筆者は指摘する。そしてこうも言っている。

《総合誌全てを、毎月、一応目を通しているが、正直なところ、どれも似た編集スタイルで、マニュアルものや軽い読み物が多く、評論、研究等、やや肩の凝るようなものは敬遠されている。一誌ぐらい現代俳句の作品の精華を誌上に反映するとともに、今日の俳句の問題点を浮き彫りにするためにも俳句史の検証にもっと正面から取り組んでもいいのではないかと思う。気軽に読めるものをという読者へのサービス精神が、逆に総合誌の存在基盤を危うくしてはいまいか》

このような指摘は実に的を射たものだ。これまでにも時々心ある人たちから言われていることであり、総合誌の編集者が気づいていないはずはない。

けれども、さっぱり変わらないところを見ると、きっと「別な理由」があるのだろうな。

そんな皮肉な思いが、ふとよぎるのだった。

(2007年8月31日)



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