2007-09-02

前田英樹氏講演「芸術記号としての俳句の言葉」について 宇井十間

前田英樹氏講演「芸術記号としての俳句の言葉」について ……宇井十間



『俳句空間/豈44号』(2007年5月)は、昨年2006年10月の「摂津幸彦没後10年の集い」での前田英樹氏の記念講演を軸として編集されている。だからまずその前田氏による講演を巻頭に収録している。これにつづいて、同人諸氏による特集のタイトルは、「俳句の言葉」。これも、前田氏の講演名「芸術記号としての俳句の言葉」に関連して、同じタイトルで同人の小論を集めたものらしい。講演という形で発表されたものを文字媒体を介して読み、しかもそれを批評するというのはある意味アンフェアであろうが、それを承知であえて論評してみよう。

(この記事は文末に「平成十八年十月十四日 日本出版クラブ会館での講演に基づく」と記されているが、それが前田氏自身による原稿なのか、あるいはだれか当日の出席者の記録にもとづくものなのかはっきりとは書かれていない。個人的には、内容から察するに後者であろうと推測しているが、文責をはっきりさせるためにもできれば寄稿者または記録者の氏名を明記してほしい。私の推測が正しければ、下記の難点のいくつかは前田氏自身の責ではなく、むしろ記録の問題である可能性もある。)

前田氏の講演は全体としてかなり意欲的で刺激的なものだが、その理論的な構成が俳句の実際のテキストに裏打ちされていないためやや説得力に欠ける点がまず惜しまれる。しかも、講演という形式上仕方がないのかもしれないが、論の展開にもしばしば飛躍があって論点をたどりづらい。しかし、あえてここでそれを要約してみることにしよう。

(くりかえすように、以下の紹介は、あくまで掲載記事を読んだかぎりでの私の理解にもとづいているので、なにか誤解があるならば、前田氏または当日講演に列席した方々にご指摘いただきたい。)

まず講演の内容を大枠としてまとめてみると、前田氏はまず言葉の意味というものを行動主義的な弛緩/緊張という視点から分析したあとで、絵画、彫刻、音楽におけるいろいろな「芸術記号」(これはあとで定義する)をそうした行動的視点から説明してみせようとする。「芸術記号」は、弛緩から緊張への「巨大な収縮」(これも同じく)を、日常の習慣とは別の新しい<図式>によって実現するものとして説明される。そこから、そうしたいろいろな芸術記号との対比で、俳句の言葉を語ろうとしているわけである。芸術記号におけるそうした「収縮」の仕方には2種類(「展開型」と「凝縮型」)あり、俳句は後者の「凝縮型」の芸術記号の代表であると前田氏はいう。結論としては、(短歌や小説のような)「展開型」の芸術記号が新しい<図式>においてわれわれの「感覚(感情)」を具現化するものであるとすれば、俳句のような「凝縮型」の芸術記号は、そうした<図式>の存在自体を表現するものであると定義されている。(あとでふれるように、実はこの最後の結論がきわめてあいまいにしか説明されていない。というより、私の印象では、前田氏自身のなかでこの部分があまり吟味されていないようにおもわれる。)

つぎに、ややこまかくなってしまうが、もうすこし丁寧に論旨をおってみる。前田氏はまず「知覚」と「感覚」を区別することからはじめている。

私が椅子を知覚するのは、私が椅子に座れるからで、座れないカエルのような生き物は、これを個体として知覚しないかも知れません。(2ページ下段)

つまり、私にとっての椅子の意味というものはその行動的な機能にあり、しかも私の椅子の知覚はこうした行動的な意味に立脚している。このように行動とダイレクトに連関する「知覚」に対して、前田氏は「感覚(感情)」という別の概念を導入する。「知覚」とちがって、「感覚」は行動のためにあるわけではないと前田氏はいう。それは、(私の解釈では)たとえばこういうことだろう。極限的な飢餓状態にある場合、人間はそれが空腹を満たし餓えをしのぐにたるものであるという点においてのみ食べものを「知覚」する。こういう状況下では、食物の味は二の次になるのである。しかし、たとえば土曜日の夕刻に高級レストランに出かけていく人たちにとっては、同じ食事でも今度は味覚という「感覚(感情)」のみが問題となるであろう。前者は行動的に極度に緊張した「緊張」の状態であり(前田氏は火事の例をあげている)、後者はそれと反対に「弛緩」した行動状態である。「知覚」においては、おおくの場合、その知覚の明確な(行動的な)意味を特定できる。これに対して、「感覚(感情)」を行動的に説明することは困難である。なぜおいしいもの(グルメ)を食べたいかといわれても、おいしいものを食べたいからだとしか答えようがないだろう。「知覚」に比べて、「感覚」のもつ意味は極端に複雑であり、あるいはとらえどころのないものである(すくなくともそのように行動主体には認識される)。

それでは、芸術記号とはなにか。「絵画における色と線、音楽における楽音、彫刻における面とマッスと空間、舞踏における身振りと衣装と舞台空間」(2ページ上段)のような芸術記号は、上記の行動的な観点からはどう説明されるのか。「感覚」は「ふだんは大きな弛緩のなかに眠ってい」るが、「これが芸術記号に転換される時には」「極度に大きな収縮、緊張、努力へと一挙に反転」すると前田氏はいう(4ページ上段)。これも一見難解な言葉をつかっていわれているが、その意味するところはきわめて単純な事実である。たとえば、高級レストランの料理という芸術は、われわれの「おいしい」という「感覚(感情)」を一挙に具体的な知覚として実現する「芸術記号」である。同様に、俳句や詩の表現も、われわれの「感覚(感情)」をいっぺんに収縮して知覚化(意味化)する技術の集積にほかならないということであろう。

しかし、具体的にそうした「収縮」はどのように行われるのか。前田氏は、ここで<図式>というコンセプトを持ちだす。

言葉の詩的傾向が実現するこの巨大な収縮は、もちろん日常の習慣に従っては行なわれません。その収縮には、その都度新しい<図式>が作られなければなりません。詩の<意味>を創造するための発明的な図式が必要なのです。(4ページ下段)

ここでいわれる<図式>とは、具体的にどのような心的現象をさすのか。同じことは、さらに簡単に次のようにもいいかえられている。

<ひとつの詩>というものを画定するのは、それを具現する<ひとつの図式>だと言ってもいいでしょう。(同)

なぜ詩的な「収縮」において<図式>というものが必要となるのか。そもそも<図式>とはどのように定義されるのか。前田氏は、それを具体的に説明していない。詩のテキストを引用してそれを説明することもしていない。おそらく前田氏の念頭にあるのは、ひとつにはカントの図式論であるとおもわれるが、その図式論が前田氏のいう「収縮」とどのように整合するのか。ここはとくに論に飛躍の目立つ箇所であり、もうすこし丁寧に論じてほしいところである。

最後に前田氏は俳句の話をあげる。ここで話はさらに飛躍する。(私には、ここで話がほとんど関係のない別のトピックに飛んでしまったような印象すらうける。)前田氏によれば、芸術記号におけるこうした<図式>の具現、または<包括>されたものの<展開>のプロセスには2種類ある。連続展開型と凝結型である。音楽、小説は連続展開型であり、マチスのデッサンなどは凝結型である(と前田氏はいう)。俳句は、言語芸術における後者の代表的な例ということになるだろう。しかし、ここで凝結とはなにをさすのか。

そもそも芸術における<凝結>とは、何でしょう。これは、一切を包括して成り立つ<図式>そのものの表現であると、定義することができます。図式の存在自体を表現するのです。この表現も、包括されたものの一種の展開であるとは言えますが、この展開は包括という出来事そのものの表現になっている。(5ページ下段)

前田氏は、短歌は短くても連続展開型であるのに対して、俳句は、そういう展開を拒絶して凝結、結晶するとき、自律した一句となるという。いわれていることは一見してそれほど新奇ではなく、拍子ぬけするほど常識的ですらあるように感じられる。「展開を拒絶して凝結、結晶する」というのは,俳句形式の時間的な特性を、これまでの議論のコンテキストにそくしていいなおしているにすぎない。要するに、それは山本健吉が加藤楸邨を引用して「読み了えたところから再び全句に反響する性格がある」といった俳句の詩型としての基本性格を、前田氏個人の言葉で表現しているにすぎないだろう。しかしそれにしても、「図式の存在自体の表現」とは、いったいなにをさすのか。また、前田氏は上の引用部で、(凝結型の芸術記号では)<包括>されたものの<展開>が、そのまま<包括>という出来事そのものの表現になっていると言っている。なぜ前田氏はここで、わざわざこのような(自己言及的な)形式そのものについてのべているのか。

私はかつて、俳句の内在的基本性格について「(俳句は)意味を疑い内面を遮断する詩型であ」り、つねに「それ自体への懐疑に向か」う詩型であるとのべたことがある。私がそこでいいたかったことは、俳句の構造自体が、<意味(ないし内面)>という現象のもつ時間性そのものを断ちきって、そうした現象の成立基盤そのものをわれわれに問いかけようとする性格があるということである。前田氏のいわんとしていることも、おそらく本質的にはそれと関連しているだろう。前田氏は、もうひとつの例として、龍安寺の枯山水をあげているが、このふたつの例(俳句と枯山水)に共通するのは、そうした意味と内面性への懐疑である。

この問題を追求していくと、実は現象面でさまざま問題に行きあたるはずである。しかし、この講演では(おそらく時間的制約からか)この問題についてはそれ以上ふれられていない。

行動論的または言語論的な概念を援用して、詩ないし俳句の本質にせまろうという意図は評価できる。だが、最後の俳句に関する部分はやや未消化におわっており、むしろ前半との関連性をもう少し丁寧に展開した方が生産的だったのではあるまいか。時間的な制約もあってか前半と後半に話の飛躍がありすぎるので、論としてはやや生彩を欠いた印象がある。たとえばはじめに具体的な詩のテキストを引用して、それをもとにして話をすすめたほうがずっとよかったのではないか。

俳人の側の反応はどうだったかというと、(私の見落としもあるかもしれないが)今号をみるかぎりでは、この講演に正面から反応しているものは見当たらなかったようにおもう。むろん当日その場に居あわせた人々にとっては、いろいろと有意義なやりとりがあっただろうと推測するが、この講演に関していえば、前田氏と受け手である俳句人とそれぞれの興味や知識が食いちがっていて、結局会話が成立していなかったのではという印象を受ける。俳人側からの反応を見てみると、俳句は小説や短歌とちがって凝結型である(前田氏)という講演の最後の部分をとらえてそれにコメントしてみたというものがおおく、もうすこし具体的な質疑応答があっていいようにおもった(俳句はみじかい以上、その表現がほかの詩型に比べて凝縮的であるのは当然の事実であって、そのこと自体はとりたてて論じるほどのことではない)。たとえば、恩田侑布子氏の文章は、前田氏の講演の内容を比較的正確に要約しているようにおもえるが、その恩田氏も講演の内容に対してはあまりおおくの応答をしているわけではない。

前田氏の講演自体が俳句についてはごく簡単に最後に語っているのみであり、結構急ピッチで論を展開しているので、それを受けて、俳人の側が正面から反応できないのは無理もないともいえる。しかし、せっかく前田氏がこれだけマジメに俳句について論じようとしているのだから、それをうけて俳句のプロ(というものがあるとして)のおもしろい話もいっしょに読ませてほしかった。

しかし、前田氏にはもっと時間をかけてこのトピックについて語ってほしかった。そのために、講演の再録と同時に、前田氏本人による原稿も収録したらよかったのではないか。ある程度の長さでなければ論じられないトピックというものもあるので、こういう形で発表するのはやりにくかったであろうと推測する。次号以降に期待することにしよう。

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