2007-10-28

吉岡実「過去」「桃 或はヴィクトリー」「わだつみ」

吉岡実 「過去」「桃 或はヴィクトリー」「わだつみ」

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「過去」(『静物』1955)













「桃 或はヴィクトリー」(『静かな家』1968)











「わだつみ」(『ムーンドロップ』1988)















吉岡実の数多い代表詩のうち3篇を、縦書きで掲載します。

あきらかに横書きにすることが不可能と思われる「わだつみ」を、ぜひ掲載したかった。そこで、この際、吉岡の前期を代表する2作(ここに「僧侶」を加えれば完璧ですが)「過去」と「桃 或はヴィクトリー」も、縦書きで。

佐原さんの文中に横書きで引用されているそれと、読み比べてみました。

いかがです? あらためて読む横書きの同じ作品から、自分は、予想以上に、冗舌な印象を受けました。それは、ある意味、この詩人の本質が露わになったようで、おもしろかった。

縦書きのほうが、訥々とつぶやくようで、行間が「深く」感じられるのです。
横書きの一行が、あわただしく折り返して終るのに対して、縦書きの一行は、下方へ、奈落へとむかって終る。

いやいや、あながちこじつけではないかもしれないというのは、「わだつみ」を含む『ムーンドロップ』とその前の『薬玉』(1983)の2冊における、行頭下げの手法のことがあるからです。ここでは、明らかに「文字面もじづら」が縦書きであることが、書くことの出発点(到着点?)になっている。

ある一行の終りが、すぐ横の行の頭につながっていて、ふたつの行の「ずれめ」には、下方へのベクトルと、その流れがひっかかるときの、上向きの反作用があり、言葉がくきくきと見た目通りに屈折している。

「ヨーロッパ詩の真似でしょう」(大岡信)と言う人もいるし、交流のあった高柳重信の影響を見ることもできるでしょうが、自分には、あれは、和歌や俳句の「散らし書き」に見えます。

あの2段または3段に、ずらして書かれる一行一行が、かすかに途切れながら繋がってゆくタイポグラフィーのダイナミズム。

その裏では、575や77の、切れたり、繋がったり、跨いだりする拍子がとられているんじゃないか。詩の言葉の「多声化」を、伝統詩への本卦還りに織り込むようにして、試みていたんじゃないか。

…なんて、それは、俳句好きの牽強付会かもしれませんが。

(上田信治・記)



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