2007-11-11

俳句とクオリア 生駒大祐

俳句とクオリア ……生駒大祐


我々の脳がふわふわの羊で出来ているとしたら、一体どんな問題が生じてくるだろうか。

我々の脳がもふもふした羊で出来ており、脳波とは羊がその体を揺さぶることによって作り出した静電気であるとして、我々の生命活動にいかなる支障が生じるものであろうか。

勿論、私の知る脳科学者で『脳=ふわふわ羊』説を唱えるスパイシーな人物は残念ながら存在しない。しかし、現代の脳科学が脳に関して齎している知見とは、ある意味で「我々の脳は羊では有り得ない」というものと大差ないとも言えるかもしれない。2000億個とも言われる脳神経細胞が如何にして意識を作り出しているのかに関して、脳科学者は未だ明確な原理を見出すことが出来ていないのが現状である。

しかし、意識を解明しようとする脳科学者が頭骨内を覗き込んで脂肪の塊の前で頭を抱えている一方で、我々は上の文章における「ふわふわ・もふもふの羊」の「ふわふわ・もふもふ」感を、脳の深遠について思索を巡らすこと無く容易に脳裏へ描きだすことが出来る(今一度目を閉じて想像上の羊に手を触れ、五指をその柔らかさにめり込ませてみていただきたい)。
我々の持っている、こうした現実から切り離された鋭利な「感覚」は、「クオリア」と呼ばれている。

クオリアの一つの定義は、脳科学者・茂木健一郎によって『クオリアは、私達の感覚のもつ、シンボルでは表すことのできない、ある原始的な質感である。』(茂木健一郎著:「脳とクオリア」)と与えられている。しかしそんな広辞苑的文章を理解するまでもなく(この「理解した感じ」も一つのクオリアである)、我々俳人は俳句を通して日々四季の彩の下に立っている。桜花の花弁に吹かれ、夕立の軒先の匂いを嗅ぎ、秋嶺の装いを網膜に焼き付け、処女雪の踏み拉かれる音を聞く。そうと意識せず、我々はクオリアに拠って生きているのである。

このように、「クオリアの感じ」(「クオリアのクオリア」とも言えるだろう)はある種簡単に掴むことができるものである一方で、その本質に関する理解をすることは、脳に対する見識の浅い我々には中々難しい。しかし、前述のように俳人とはクオリアと最も密接に生きている人種のひとつであると私は考える。俳句をクオリアという観点から考えてみることで、両者に対する理解を深めることができるかもしれない。

本稿では、特に季語に関してクオリアの考え方を導入することで、どんな仮説が生まれてくるのかを考察してみたいと思う。

クオリアという観点を導入したとき、俳句における季語の役割の一つとして思い当たるのは「句における様々なクオリアの定常化」である。

クオリアという存在に関する一つの疑問として、我々は物事を理解する際に膨大なクオリアの取捨選択をどのように行っているかというものがある。例えば

手をつけて海のつめたき桜かな 岸本尚毅

という句を考えてみる。この句の中で、「手をつけて海のつめたき」という一連の語からはその情景に対する無数のクオリアが生まれることであろう。それはいずれも絶対的な優劣関係の存在しない一景色の集合であり、読み手の好みの範疇を越えて作者の詠み込もうとした(正確には、この俳句がそう詠まれるように示している)情景のクオリアを決定することはできないであろう。

しかし、そこに「桜かな」の五文字が加わる。そこで起こるのは単に句における春という季節の限定だけではない。この五文字によって数多くの「春」のクオリアの中から「『桜」の春」のクオリアのみが読者の脳裏に鮮やかに浮かび上がるはずである。この「桜」という季語の鮮やかなクオリアが句に加わることによって、句の表現する景色が限定され、より明確に浮かび上がることとなる。

さて、こうしてクオリアという概念を軸にして考察してきたものの、上に述べたことはおそらくクオリアという概念を導入しなくても当然みなが考える程度のものではないかと思う。続いては、この考察を脳科学における現状解釈に触れながらさらに深めていきたい。

ここまでは無条件に「桜は春の季語である」ということを前提として議論が成されている。一般に季語はある一定の「季」を客観的な要素として持っており、句の解釈ではその「季」を前提とした上で季語ごとの特徴あるその「季」の情景が句の中に重なってゆくものだとして扱われているように感じる。一般に言われる「季節感」という語はそもそも絶対的な「季節」の存在を前提とした表現ではないか。

しかし、脳科学的に「季語」のクオリアが「季節感」を前提として存在することは果たして妥当なのであろうか。それを議論する前に脳の仕組みに関しての簡単な説明を記したい。

この文章の最初の問いを思い出して欲しい。「脳が羊であってはいけないのか」という問いに対して、我々は無限後退の矛盾を指摘することによって解答することができる。つまりは、思考の源泉たるニューロンのパルス信号をモニタリングしている理性ある物体が存在するとすれば(つまりはこの問いのように羊が「正しく」静電気を作り出して意識を形作っているとすれば)、その物体自体の思考をモニタリングする更に小さな理性ある物体が必要となってくるのである。脳が羊の無限構造を為しているとすれば、その最小の羊は相当可愛いらしいものになることだろう(顕微鏡で覗くとこちらを向いてお尻を振る羊!)。茂木健一郎の言う所謂ホムンクルスの誤謬である。

この矛盾を解消するに足る認識を司る原理として、『私達の認識は、脳の中のニューロンの発火によって直接生じる。認識に関する限り、発火していないニューロンは、存在していないのと同じである。私達の認識の特性は、脳の中のニューロンの発火の特性によって、そしてそれによってのみ説明されなければならない』という原理、すなわち『認識のニューロン原理』が提示される。(『脳とクオリア』 茂木健一郎著) これはつまり、「クオリア」を記述するのに「ニューロン(=神経細胞)の働き」の記述が必要十分条件を満たしているということである。何らかの理性ある物体がニューロンを動かしているのでは無く、外部刺激によって引き起こされるニューロンの電気信号が我々の認識の全てであるというのだ。

以上を踏まえて俳句に関する議論に戻ろう。この原理が正しいとすると、「桜」というクオリアが外在的な「季」を前提としているとすると矛盾が生じることになる。なぜなら原理によると「桜クオリア」にとって利用可能な情報は、我々の脳の中の発火しているニューロンの働きのみである。よって「桜クオリア」は「季」という外在的な情報を前提とすることはできないことになる。

これは、我々の持っている季節感や季節という認識自体もクオリアにすぎず、「季語」と「季節」の間にあるのも絶対的な上下関係ではなくクオリア同士の結びつきという相対的並列関係にあるということである。「桜クオリア」は「春」の感覚を内包して存在するのではなく、「桜クオリア」が我々にもたらす情景や感情、記憶、色彩、五感の鮮やかさが、春の「季節感クオリア」とよく共鳴し、結果「桜」という語に季節感が生じることになる。

しかし、そもそも「季節感」のクオリアとは何なのであろうか。「桜」のクオリア等に関しては、それまでの人生における桜にまつわる様々な感情や出来事、景色、情報が我々の「桜クオリア」を構成しているとして納得できる。しかし、季節感という抽象的な言葉の持つクオリアは、我々の五感刺激からダイレクトに構築されるとは考えにくい。

一つ考えられるのは、「様々なクオリアの『解釈』の中で季節感クオリアが作られた」ということである。我々の持つクオリア自体は「感覚」という形で認識されるため、その質感の孕むものを「言葉」でどう表現するかは我々の理性が行う。その際にこれまでの経験から得てきた、例えば「桜は『春』の情景である」という情報(我々にとって歳時記はその情報の最たるものであろう)が作用し、結果「桜の咲いている情景の持つ情感」は「春の情感」であると解釈され、結果そのフィードバックによって春の季節感クオリアが作られてゆくのではないだろうか。

もしそうであるとすると、季節感とはむしろ季語から作られているとも言えるかもしれない。季語となるのは、「自らの『季節感クオリア』の形成に貢献したクオリアを持つ事物」ということになるだろう。季語と季節感の関係は、この仮説によれば最初の仮定と逆転することになる。

勿論これはあくまで仮説であり、季節感のクオリアがどう形作られるかを断言することはできない(これは自分の不勉強も当然あるが、おそらく脳科学者も現状では断定し切れない部分であると思う)。しかし、我々の認識は我々自身の持っているニューロンからしか生じえない以上、「季節」「四季」が客観的な存在であるという認識は改められるべきであることは確かだろう。

以上考察してきたが、やはりクオリアという概念はまだきちんと体系化されたものではなく、議論も推定を重ねたものならざるを得なかった。しかし、多くの議論を呼ぶ季語という抽象的且つ俳句独特の概念に対して、クオリアが一つの解釈のきっかけになれば俳句・クオリアの両方の観点から見て非常に面白いことになるのではないかと強く思っている。


参考文献:
「脳とクオリア」茂木健一郎著・日経サイエンス社
「脳の中の小さな神々」茂木健一郎著・聞き手歌田明弘・柏書房


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