『俳句のはじまる場所 実力俳人への道』小澤實 ……上田信治
角川選書 410 角川学芸出版 2007年7月刊
目次
俳句を志すひとへ;なぜ俳句を作るのか;境界を越えた冒険者たち;俳句異界論;発句と俳句;挨拶の起源;挨拶の重要性;近代の挨拶;挨拶と句会と;俳諧・俳句の思想;俳句における志;なぜ俳句を縦に書くか;仮名遣いは思想である;なぜ俳句は季語を含むのか;定型が大前提;切字—この不思議なるもの;文語をもって詠む;取合せの試み;取合せ俳句の源流;写生とはなにか
本書の元になる原稿は、平成9年から平成12年にわたって『俳句研究』に連載された。周知の通り、10年前の連載開始当時、著者は『鷹』誌の編集長であり、連載終了時には、すでに自らの結社『澤』を準備していた。
副題「実力俳人への道」は、当時の『俳句研究』の編集長の命名による。
多くの読者の疑問に応えるという結構を持つこの本において、「実力俳人」への道を目指すのは、まず、初心者を含む大半の読者ということになる。しかし、そのキャッチーな副題には、当時まさに「実力俳人」として歩を進めていた著者自身の考えを、現在進行形で書き留めてほしい、という編集者の希望がこめられていたと思う。
あとがきによれば、連載の終了からさらに7年を経て刊行された本書には、現在の著者の俳句観とは異なる部分もあるらしい。たとえば、それは第2章冒頭の「俳句は自分のために作りたい」という部分。
選者のための作句になってしまったら、すでに書かれている表現を踏み越えるような、新鮮な作品は生まれようがない(…)俳句はそれを生みだしたいという衝動に、まさに突き動かされるように詠みたい(…)自分にとって、俳句と関わっていくことに、どのようなプラスがあるのか、それを問いつづけることが、「俳句は自分のために作る」と思いつづけることになるのではなかろうか。(第2章「なぜ俳句を作るのか」p19-20)
いかにも当然のように(※「俳句は自分のために作りたい」と)書いているが、現在は疑問を抱いている。自分だけのために作られた俳句が、果たして大きな世界を捉えることができるのか、と思いはじめている。(「あとがき」p280 ※引用者注)
「疑問」が抱かれるのは当然で、3年にわたる連載中から、あきらかに著者の関心は、俳句の根拠すなわちそれが「はじまる場所」を、個人による表現から、伝統と共同性に置き直すことにあった。
「第12章 なぜ俳句を縦に書くのか」を見てみよう。
外山滋比古の、日本語における横書の例外性を論じた文章(「縦と横」昭和44『近代読者論』所収)の紹介からはじまる。外山は、日本語の文字(漢字・かな)の形状は、縦に結合する力が強く、横に独立する力が強いという特性をもっているので、横書きに不向きであり、特に俳句のような詩は横組みからは生まれないだろうと、書く。
ここまでは、いちおう実証的論拠にもとづく横書き否定論。
つぎに著者は、縦に書くことは、これまですべて縦に書かれてきた、日本語の詩歌の仕事の上に、それらをふまえて書く「一行をそう思いつつ書く」ことであり、横書は、その伝統から自分の作品を切りはなすことであった、と言う。
また、さらに、連歌発句が重視した「高さ」を、現代の俳句が失わないために、表記の面からも、俳句は縦に書かれるべきである、とも言う。
さらに、これは「第4章 俳句異界論」ともつながるのだが、「俳句の縦書きの一行に、神の依代を見るというようなことはできないだろうか」と書く。
(依代が生け花の原点であるとする、生け花作家の川瀬敏郎の発言を引いて)室町期において日本独特の「たてはな」様式が生まれることと連歌が完成したこととは、どこかつながるのではないか。発句は季語という「花」を含む縦一行。それは、これからの九十九句が、無事付けられることを願いつつ、神にたてまつるように置かれる。その一行が生み出す清浄な空間は「たてはな」の置かれた空間と類似している。(…)縦の短冊は直立して神の憑着を待っている。その神とは新たな発想であり、すぐれたイメージであり、詩そのものと言ってもいいかもしれない。それが憑着したとき一句が生まれるのである。また、そうして、生まれた縦書の一句も神の憑着を待っている。その神とはすぐれた読者であり、その者の深い読みである。(p118-119)
オカルト? いや、それは、むしろ、やみくもな願いなのだ。
著者が十分すぎるほどに現実的であることは、「神」と書いて、すぐさま、それを「発想」「イメージ」「詩」「読者」「読み」と、パラフレーズせずにいられないことからも、明らかである。
いみじくも、著者自身が「俳句という形式そのものに、ひとを酔わせないところがある。醒めていて批判性の濃い形式と言ってもいいかもしれない」(p20)と書いている。
俳人は、どうも歌人のようには、言葉に対して神秘主義的にふるまえないところがある。十七音という全体が見渡せる長さの言葉の働きには、目を見張るような達成はあっても、神秘は見出しがたい、ということだろうか。
それでも、著者が「俳句は異界」「俳句は依代」と、ひとつ間違えばファンシーですらあるような精神世界的意匠をとりあげるのは、俳句の根拠を「挨拶」に、すなわち共同性に置くからだ。
俳句の共同体は、明治以来「師弟関係」をエートスとしてきた。「師」を絶対視することは、息苦しいことだ。もし「師」が伝統につらなることによって開かれた存在であると、信じられないとしたら。
「師」よりも「現代」よりも、もっと遠くに、共同性の基礎を置き直すことが、本書に託された願いであったと、自分には思われる。
本書では「縦書」の他にも、「季語」「定型」「仮名遣い」「切字」「文語」など、俳句を俳句たらしめている種々の要素が、著者の古典に対する造詣と、直感によって、伝統と共同性の中に位置づけられている。
その思考の過程、すべてから伝わってくるのは、ともかく「俳句はすごいものであってほしい」という、やみくもな願いだ。
そうでなくて、どうしてすごい俳句が書けようか。そうでなくて、どうして結社が成るだろう。
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2007-11-18
俳句関連書を読む 「俳句のはじまる場所 実力俳人への道 小澤實」
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16 comments:
鮟鱇です。
俳句が縦書きでなければならない、という話は笑えます。神主さんの説教を聴くみたいで、他も笑えますが。
一部の俳人は、作品は十七字しか作らないのに、どちらでもいいことになるとずいぶん饒舌になりますね。
和文が縱書きになったのは、毛筆で書く漢字が縱に書かれていたからですし、仮名が真名(=漢字)から、毛筆に適した形で生まれたからですよ。
だから、俳句が縱書きでなければならない、とするなら、俳句の起源を中国の漢字に求めなければならない。
しかし、和文の縱書きが横書きになったのは、毛筆がワープロのキーボードに変わったからです。
だから、和文も俳句も、その起源を中国に求めなくてもよいのです。
縱か横かは、日本語や俳句とはまったく関係がない。
添字漢俳・俳人探勝伴秋娘 2006.12. 2
佳吟短,閑話長。俳人喜飲醉春昼,歡笑對秋娘。 (中華新韻十唐の押韻)
佳吟は短く,閑話は長し
俳人 喜び飲んで春昼に酔い
歓び笑って秋娘に対す
鮟鱇さんのコメントに反論!
>和文が縱書きになったのは、毛筆で書く漢字が縱に書かれていたからですし、仮名が真名(=漢字)から、毛筆に適した形で生まれたからですよ。
この点はその通りなのだろうと認めますが、
>だから、俳句が縱書きでなければならない、とするなら、俳句の起源を中国の漢字に求めなければならない。
ここには飛躍があります。
鮟鱇さんご自身の漢詩でさえ
パソコン上では現に横書きです。
「漢字=縦書き」ではありません。
小澤さんの論のポイントは
「横書きでも書こうと思えば
書ける俳句を、それでもなお、今、
縦書きにするのは何故か」です。
紀源ではなく、現在、今の話です。
したがって、
>和文も俳句も、その起源を中国に求めなくてもよいのです。
その通りでしょう。しかし、
>縱か横かは、日本語や俳句とはまったく関係がない。
ここは違います。少なくとも俳句と縦書きには関係がある、とあえて現在の実作者である小澤さんは立論しているわけです。
>一部の俳人は、作品は十七字しか作らないのに、どちらでもいいことになるとずいぶん饒舌になりますね。
>俳句が縦書きでなければならない、という話は笑えます。神主さんの説教を聴くみたいで、他も笑えますが。
笑う(冷笑というやつですかね)のはご自由です。
しかし、「今、あえて縦書き」といっている相手への反論になっていません。
鮟鱇さんのコメントについて、私も冷笑したほうがいいですか?
匿名さま
鮟鱇です。
匿名さま、私を冷笑するのは構わないが、私に反論するなら名乗るぐらいのことはしたらどうですか。反論に責任を持ってください。仮名でいいんですよ、ここは。
私の「笑う」について、補足します。冷笑ではありません。縱書きか横書きかは、あまりに馬鹿馬鹿しい問題だから笑ったのです。
私は、漢詩は縱に書いたことはありません。二万首、全部ワープロで作ったからです。
私は、「漢字=縦書き」などと言ってはいませんよ。「毛筆で書く漢字」と書いてあるでしょう。「毛筆=縱書き」だと言ったのです。
「俳句と縦書きには関係がある」という立論は、ナンセンスです。私は、自作を朗読します。声には縱書きも横書きもない。だから、ナンセンス。
ナンセンスであることのもうひとつは、俳句はもはや日本語だけのものではない、という認識がまったく欠落している立論だからです。私が出席した世界俳句大会での外国の俳人たちは、いい俳句(詩だったかも知れないけれど)を作っていましたよ。そういう俳人たちに対する私の敬意と、「俳句は縱書き」という立論の間には、あまりに広いギャップがあります。
このギャップ、きっと超えられないでしょうね。超える意味もない。だから、私は小澤さんに反論するつもりなど、初めからありません。あまりにギャップが広過ぎて、笑うしかない。
ただ、縱書きだとか横書きだとかであれこれいうことは、詩歌にとって普遍的な問題ではない、と思うだけです。
コメントの署名のしかた
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>鮟鱇さま
ちょっと、今回のコメントは、いただけないです。
まず、それが、元記事の筆者である上田に向けられず、漠然と、この場にいない小澤氏を嘲弄するような調子で、書かれている点(小澤氏を名指しにしていないところが、かえって分ってやってらっしゃるな、と思われる)。それは、やっぱり、喧嘩の相手を、お間違えでしょう?
つぎに、どうやら、小澤氏の元本に当られていないらしいこと。鮟鱇さんが、横書き否定論を展開されることはご自由ですが、小澤本の紹介をした記事のコメント欄に書き込まれるなら、それなりの手続きを、踏んでいただきたい。
「笑えます」も、ちょっとねえ。それは、悪しき掲示板文体ですよ。
「週刊俳句」のコメントは、元記事の真下に並んで、読みたくない人の目にも入ってしまうスタイルなので、あまり美しくない物を持ってこられると、筆者としても編集者としても、残念です。
訂正
>横書き否定論
ではなくて
「横書き否定論」批判
でした。
上田信治さま
鮟鱇です。
わたしの感情的な表現が上田さんの不快を買った点はおわびいたします。
しかし、わたしも漢詩をやっていますので、愚かしい縱書き論に付き合うこと少なからずです。そこで、上田さんの玉稿を拝読し、頭に血が昇りました。
>喧嘩の相手を、お間違えでしょう?
わたしの喧嘩の相手は、縱書き論です。コメントを上田さんに向けなかった理由は、特に「12章」の小澤氏の「神がかった(これは、引用文から受けた小生の受け取りです)」縱書き論に力点を置いているように読めた玉稿に、上田さんが書こうとしたこと、つまりは、上田さんの執筆の意図を読み誤ったからです。
上田さんの執筆が、俳句縱書き論に同調していると読めれば、わたしは、上田さんに向けてコメントを書きました。しかし、わたしの読解力では、上田さんはニュートラルな立場で書いているように思えました。だから、上田さんを相手にはしなかった。
「それなりの手続き」が、その意図の読み誤りにつき上田さんにきちんと確かめなかった点にあるのであれば、この点も遺憾に思いますが、上田さんがどういう意図で玉稿をお書きになったのか、わたしには今も釈然としません。
いずれにしても、私のコメントが週間俳句の掲載にふさわしいかどうかは、編集者のお決めになることです。私は、書いたことを撤回できませんが、不適切であるとのご判断であれば、編集のお立場から削除してください。
ただ、発言が不適切であるから削除したむね記録を留めることが可能であるなら、そうしていただきたいと思います。
ええっと、コメントは、(繰り返し申し上げていますが)基本的に削除しません。
削除するほうが、不適切なコメントにとってはラク、というか幸せかもしれまんが、週刊俳句は、そこまで親切ではありません。
さて、今回、コメント欄の主旨として…
信治さんの記事(書評)についてのコメントは、もちろんアリです。
また、信治さんの記事が対象としているもの(この記事では『俳句のはじまる場所 実力俳人への道』)をついての感想やお考えを、信治さんの記事と対照させるのも、まあ、アリといえばアリ、です。
ただ、その場合、この本、あるいはコメントの該当箇所(第12章)を読んだうえで、というのが条件です。
鮟鱇さんは、お読みにならずに、(引用だけを頼りに)書いていらっしゃるのではありませんか?
それでは話になりません。
縦書きやら横書きやら以前の問題です。
なにかの論を批判・否定するとき、その論を読む(これは最低限)、そして、まずは論旨を辿る。これはごく当たり前のことです。
信治さんの引用のみを読み、そこから全体の論旨を充分に汲み取れる、という「省略」も、理屈のうえではぎりぎり可能ですが、どうなんでしょう? 充分に汲み取ったうえでの批判のようには、私には読めないのです。
補記
「アリです。」「アリといえばアリ、です。」という部分、「私がルールブックだあー」みたいに聞こえたのしたら、誤解です(そう聞こえちゃう人がいるかもしれないと思って)。
コメント欄というものの一般通則、というくらいのい意味です。
天気さん
鮟鱇です。編集方針については、承知しました。
わたしは、小澤さんの本を読むつもりはありません。そこで、天気さんがお書きになったことに逐一反論はしませんが、読んでいる読んでいないに関わらず言えることはありますよ。縦書きあらまほしき論は愚劣です。結果として、横書きを軽く見る信仰を存続させるからです。一方、縱書きだとか横書きだとかは、詩歌にとって普遍的な問題ではないことは自明です。
ただ、上田さんをきちんと相手にしていない、という点でのご批判については、上に弁明させていただきました。
>読んでいる読んでいないに関わらず言えることはありますよ。
もちろん、あるでしょう。
例えば、おっしゃっている「縦書きあらまほしき論は愚劣」というドグマは、読まなくても言えます。でも、ドグマを戦わせても不毛です。
論旨・論理を対照する(ぶつけあう)こと(それは読まないとできないことです)からは、新しい見方が生まれたり、論点がクリアになったり、といった楽しいことが起きる可能性がありますが、ドグマ対ドグマは、退屈な水掛け論にしかなりません。
言い換えれば、AかBか、最初から自分に答えがあって、賛成か反対かでしか読めない、言えない、というのでは、思考にも批評にもなりません。
「横書きを軽く見る信仰を存続させるからです。」という論拠は、私には、批評でなく「政治」に聞こえます。
もちろん、政治であってもかまわないのですが、政治には戦術が必要です。読まずにドグマを宣言するだけという方策は、戦術としても脆弱です。相手は、どこを衝かれているわけでもないのですから。
もうひとつ。
>縱書きだとか横書きだとかは、詩歌にとって普遍的な問題ではないことは自明
これはそのとおりです。けれども、俳句という「個別」を扱うときは、また別の層の議論になります。
ちなみに私自身は、句を縦書きでしか書きませんが、表記は二次的なもの(副次的)と考えています。その点、鮟鱇さんに近いかもしれません。
>週刊俳句さま
名前の書き方のご教示、
ありがとうございました。
仮名を「匿名」として
鮟鱇さんのいわれる責任(といって、
どんな責任なのかよくわかりませんが)を
果たそうとも思いましたが
「コメントは削除しない」との
天気さんのコメントがありましたので
大安心して、このまま匿名でいこうと
思います。「荒らし」をするつもりも
毛頭ありません。
>上田信治さま
美しくないもの、という点では
私も鮟鱇さんと同罪です。
お詫び申し上げます。
>天気さま
私は『俳句のはじまる場所』は
読んでいますから、
コメントする資格はあるようですね。
その証拠として
タテヨコの一月の川、と申しあげましょう。
でも匿名じゃ、やっぱりダメかな?
>鮟鱇さま
再反論を拝見しました。
お考えは、よくわかりました。
いいたいことはありますが、
もう申し上げません。
鮟鱇さんのコメントとともに、
私のコメントが削除されず
そのまま残っていればそれで十分です。
為念。
>『俳句のはじまる場所』は読んでいますから、
>コメントする資格はあるようですね。
この本を読んでいない方ももちろんコメントできます。繰り返しになりますが、信治さんのこの記事へのコメントは、どなたでもどうぞ。
ほとんど蛇足のような為念ですが。
あ、それと、この記事の主眼は、もっと違うところでしょう?
縦・横ばかりに終始してる場合じゃない。
信治さん、ごめんなさいね。
天気さま
ご指摘がありましたので原著一読しました。読後、縱書き/横書きをめぐる私の考えは変わることはありませんでしたが、アルファベットやモンゴル文字と異なり、漢字は縱にも横にも書けるということを改めて思った次第です。
以下、妄語します。
細かいことですが、漢詩は滅亡し、近代詩・現代詩は漢詩から派生したとする小澤氏の整理には、首をかしげました。そして
「詩型というものは滅びるときには滅びるのだ。それはぼくらが携わっている俳句も同じだ」
この言葉は、「俳句」を詩型としてとらえるだけではなく、何を詠むのか、どう詠むのかという魂の部分も含めて「詩」を論じようとする立場からの認識であると思います。また、俳人すなわち詩人として、ひとつの詩型すなわち俳句しか持ち得ない人の詩心と情熱が書かせたものと思います。
中国の伝統詩としての漢詩の「詩型」は、そういう詩心に関わることと一体のものではなく、詩譜、詞譜、曲譜という可視的な詩の「工具」として存在するものです。詩譜、詞譜、曲譜、その総数は1000以上あります。それが中国の詩詞(伝統詩)の詩型であり、工具です。そして、その工具は、漢字とその声調を知る者、学ぶ者であればいつでもだれでも、たとえ中国語や中国の文化を知らずとも、利用可能。だから、日本人は、「中国文明への憧れ」から漢詩を書いてきたのではなく、自身の詩心を言葉に託すうえで、漢詩の詩型が利用可能な工具であったから、漢詩が「書けた」のです。
欧米への憧れが、英語やフランス語やドイツ語の詩を、日本人に書かせることはできません、よほどの特殊なケースを除けば。なぜか。日本人が、それを作る工具を知らないからです。
人々の詩心のありようには時代の変遷とともに変化するところがあります。その変化をひとつが滅びひとつが生まれると見れば、「滅亡」もあるでしょう。しかし、詩の工具は、眠っているということはあっても、死ぬことはありません。
だから、小澤氏が滅亡したとする漢詩を私が書いている、ということが起きているのです。私は10年で2万首の漢語の詩を書いています。そういうことがとても簡単に起きる。また、同好の士も、全国で、断続的であるかも知れませんが、工具を使って、漢詩を書き始めています。 さらに言えば、さる学者によって昭和の始めに滅んだとされている「詞」、わたしはこれを三百以上の詩体で書いています。「工具」の利用環境は、漢詩作りが盛んだった明治期までよりもずっと進んでいます。日本にない「工具」本は、飛行機に乗って北京・上海に買いに行けばよい。
「詩型」は工具。工具を使うにはその使い方を知らなければもちろんです。詩詞の場合、平仄と韻目を知らなければ、詩譜、詞譜、曲譜を利用することができません。しかし、平仄と韻目は、個々語の属性であって、詩心とは関係がないものです。そこで、平仄も韻目も工具。ちなみに、押韻の「韻」と平仄に関わる規則すなわち「律」を、詩詞では「韻律」といいますが、これは、何も詩心のありようと結びつけてあれこれ難しいことを述べずとも、誰でも学習しさえすれば学べます。
日本の五七調、七五調を他と聖別する議論や、「俳句は詩である」という自明のことが、「どのような詩であるのか」についての簡明な定義を抜きに多くの人によって語られ混乱してしまうところに、俳句における詩性と工具性を分別整理することの難しさがあるように思います。個人の俳句観と詩体としての俳句が私の頭の中でぐちゃぐちゃになるからです。なかんずく俳句でいえば、「季語」は日本人の詩心であるのか、俳句の工具であるのか、詩心でも工具でもなく約束ごとであるのか、そういうことが人さまざまであるところが、わたしの理解を超えています。だから俳句は、句論を抜きに句だけ読みます。
鮟鱇です。前文、下記を頭に欠いてしまいました。失礼しました。
皆さま
鮟鱇です。
私の発言がきっかけで上田さんの稿と直接の接点がないやりとりが長く続いてしまったこと、陳謝します。
とりわけ上田さんには、この点で不快な思いをさせたこと、陳謝します。
鮟鱇です
小澤實氏は『俳句の始る場所』で「俳句は世界最短の詩である。」と書かれています。
この見方、小澤氏に限ったことではありませんが、拙論に『「世界最短の詩」をめぐって』(「吟遊」第28号、吟遊社、2005年10月20日刊)があります。
GoogleやYahooで「世界最短の詩」と検索していただけば、インターネット上でご覧いただけます。
世界最短の詩は、理論的には二音節の詩で、モハメット・アリに「Me,We」という言葉があり、これに倣い拙作に「我,魔」(Wo,Mo)という二字詩があります。
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