2007-11-11

十二音技法 たとえ俳句が滅びるとしても 中村安伸

十二音技法 たとえ俳句が滅びるとしても ……中村安伸



0.
遠藤治氏の「十二音技法が俳句を滅ぼす」という刺激的な記事が「週刊俳句」に掲載され、大きな波紋をひろげたのは記憶に新しい。その中で氏は「五七五のうち十二音だけ考えてあとは適当に季語をあしらう」俳句の作り方を、現代音楽の作曲法にちなんで「十二音技法」と名づけている。

「適当に」「あしらう」というあたりのニュアンスの当否については議論があるだろうが、十二音のフレーズと五音の季語を組み合わせる作句方法が普及していること、また俳句入門者にこれをひとつの型として教えることが広く行われていることは事実である。

「十二音技法」という名称が適切かどうかについては検討が必要だと思うが、少なくとも「週刊俳句」の読者には浸透しつつあるようなので、ここでも便宜上この名称を用いることとし、音楽における十二音技法はそのままで、俳句におけるそれは鉤括弧つきで表記することとする。

さて前述の記事が発表された直後、ミニ台風のごとく巻き起こった一連の議論のなか、さいばら天気氏が「十二音技法」を活用している実例としてTHCの「5分でできる!かんたん俳句の作り方講座を紹介した。そのため「週刊俳句」の読者のなかには、THCを「十二音技法」の総本山のごとく考えている人もいるのではないだろうか。

THCには「青の会」という俳句未経験者を主な対象とした句会があり、上記の「5分でできる!……」が実践されていることは確かである。残念ながら私はその句会に参加したことがないので、詳細なコメントをすることはできないが、今号に「青の会」参加者たちの体験談や意見を集めた特集が組まれているので、事の真偽を確かめたい方はそちらを参照していただきたい。


1.
映画「2001年宇宙の旅」で、モノリスという巨大な黒い物体の登場するシーンに印象的に使用されているのが、20世紀の作曲家ジェルジ・リゲティによる混声合唱曲「レクイエム」である。

この曲は暗さや明るさといった単一の曲調に収斂されるのではなく、音そのものの不安定さによって聴くものの神経にゆさぶりをかけてくる。互いに調和することのないいくつもの旋律がそれぞれに波立ち、それでいて全体の統一感は保たれ、薄く引き延ばされた恐怖、あるいは連続する戦慄とでも言えるような奇妙な体験を聴くものにもたらすのである。

これをたとえば同映画の冒頭、宇宙ステーションとシャトルのランデブーを描いたシーンに使われている「美しく青きドナウ」の、流れる水のようなスムーズさと比較すれば、その異質さは明らかだろう。

西洋古典音楽は「調性」による調和と安定にその基礎を置いてきた。しかしながら、音楽家たちの表現への欲望はとどまるところを知らず、その対象を不安や恐怖といったネガティブな心的現象にまで拡げてゆき、ついには「調性」を足枷と感じるに至った。それを払いのけ、突き抜けようとする試みのなかで、すべてをチャラにする極端な手法が生まれたのだろう。それが十二音技法である。

蓄積された経験則を制約と感じ、それらすべてを破棄して「自由に」創作を行おうという考え方の背景には、芸術家の全能感や傲慢さが透けて見えるようでもある。

そうは言っても前述のリゲティの曲のごとき表現は、十二音技法という破壊を経なければ生まれなかったものであろう。破壊は、まだ見ぬ異質な表現を獲得するために必要なプロセスだったと言えるのである。

音楽における十二音技法と同様に、俳句における「十二音技法」もまた、なんらかの必然的な要請のもとで生まれたことに違いはないだろう。ただし「十二音」という偶然の一致を除いては、この両者はまったく似ていない。


2.
俳句における「十二音技法」は、蓄積されてきたさまざまな型の中からひとつの安定した枠組みをとり出し、入門者のための道しるべとするものである。それは、音楽における十二音技法の志向する「自由」とは逆行するものだろう。

「十二音技法」を入門者への指導法ととらえたとき、その最大のメリットは、長期間の修練を積まなくても「俳句らしい型をそなえた俳句作品」を作ることが出来るようになることである。

これはルーを使ってカレーを作ることに似ているかもしれない。本格的なレシピに基づいて作るほうが、スパイスの香りが出てより美味しいものが出来るかもしれないが、慣れていないと失敗しやすいし、初心者とベテランの差もはっきりと出る。一方市販のルーはスパイスの調合や塩加減などを前もってやってくれているので、初心者でもほとんど失敗せず、それ相応に美味しいカレーを作ることができるのだ。

「十二音技法」を用いれば、実力俳人にも対抗できる作品を誰でも簡単に作ることができるらしい。それが可能である理由は「十二音+五音」という安定した型を使用していることだけでは無い。そこには俳句の「とりあわせ」がもつ曖昧さが深く関連していると思うのである。

遠藤氏も指摘しているとおり「十二音技法」は「二句一章」というスタイルを基礎とするものである。二句一章、すなわち二物をとりあわせて一句を仕立てるという方法において、その二物間の距離が適切であることを「つかず離れず」と言い、「つき過ぎ」「離れ過ぎ」という句会の合評に頻出する言葉は、この距離が適切でないことを指すのである。

ただし、実力のある俳人同士であっても、距離が適切かどうかの判断が食い違うことは日常茶飯事である。その基準はあくまでも主観であり、人それぞれ異なるものなのである。その点にこそ未経験者のつけ入るチャンスがある。

前述の「5分でできる!かんたん俳句の作り方講座」では、五音の季語に配合する十二音のフレーズについて「季語と関係ない12文字」と言い「季語の単なる説明で終わってしまうと、面白くない。」とも言っている。つまり徹底して「つき過ぎ」を避けることに重点をおいているのである。

たとえば頭のなかに二つの物を並べよと言われたとすると、特に意識しなければ明確な関連性をもった二物を選ぶであろう。したがって、まず「つき過ぎ」を避けようという指導態度は的を射ていると言える。

この「つき過ぎ」が忌避されるのは、二物の間に混沌とした闇の空間を作りたいからである。この空間が広すぎると、句は得体の知れぬ難解なものとなるが、狭すぎると謎の無い痩せた作品となってしまう。

ただ、俳人たちはその空間の大きさを計測してはみるものの、明かりを灯して闇のなかに分け入ろうとはせずに放置している。そうした態度もまた「十二音技法」を有効たらしめている一因だと思う。


3.
指導法としての「十二音技法」が広く行われるようになったことは、師弟関係を基礎とする結社誌への投句から、仲間同士での句会へと俳人たちの活動の中心が移りつつあることと無関係ではないだろう。

結社やカルチャースクールから俳句をはじめる場合、客観写生などの基本的な作句態度を学びながら、主宰や講師の添削指導により、基本的な型を時間をかけて体得してゆくことができる。

一方、句会から俳句をはじめる場合はどうだろうか。私自身も経験したことだが、作句経験の乏しい人がいきなり通常の句会に参加すると、多くの場合まったく点数が入らない。基本的な型が出来ていない稚拙さを俳人たちは見逃さない。結社の主宰はプロの読者として作者を喜ばせる術を知っているが、普通の俳人はそうはいかない。

点の入らない悔しさをバネに発奮する人もいるだろうが、ショックと疎外感から「俳句など二度とやらない。」とあきらめてしまう人も少なくない。

このとき前もって「十二音技法」をレクチャーしておけば、得点というわかりやすい評価と達成感を、比較的容易に味わってもらうができる。その結果、従来なら早期離脱していた筈の人たちを引き止められる可能性が高くなる。単に俳句人口を増やすことにはさほどの意義はないかもしれないが、いろいろなタイプの人たちが句作を続けるなら、そこから生み出される俳句作品もまた、より多様になることを期待できる。

一方、デメリットとしてまず考えつくのは、この方法の便利さに依存して、そこから容易に脱却できないという場合がありそうだということである。たとえば前述の「客観写生」は、物に対する常識的な見方から脱却するために重要な訓練であるが、楽な方法に慣れてしまった人が、このような地道な努力を必要とする方法に移行するためには、それなりの意志と努力が必要となるはずである。

また、これはデメリットとは言いきれないが、句会をゲームとして楽しむことのみを目的とする人たちがあらわれたとしても不思議ではなく、将来そのような俳句の楽しみ方が主流になる可能性も皆無ではない。

そして最悪の状況があるとしたら「十二音技法」以外の俳句を認めないという傾向が生じ、それが支配的となることである。今のところそのような可能性を匂わせる要素は皆無だが、かつて「花鳥諷詠、客観写生」以外を認めないという態度も存在したのであるから、歴史は繰り返さないとは限らないのである。

「十二音技法」で俳句に出会った人たちも、当然ながらその多くは表現することの喜びを知ることになるだろう。そうすると、やがて表現の対象を拡げたいという欲望にかられ、それに応じて多様な手段を求めてゆくことになるだろう。それが自然なことではないだろうか。

かつて音楽家たちが十二音技法という破壊を行ったのと同様に、表現者として自立するために慣れ親しんだメソッドを破壊するときが来るだろう。そのときにはじめて本格的なレシピを繙いたとしても遅くはない。

産みの苦しみによって挫折してしまう人もいるだろうが、自らの中にあるマグマに気づきさえすれば、どのような方法でそれを噴出させたとしても、もちろん俳句を捨て去って別の方法を選んだとしても何ら問題はないはずである。

今後「十二音技法」がますます普及し、それを活用した句会で俳句に慣れ親しむ人たちが増えてゆくなかで、俳句と俳句へのかかわり方が変質してゆくことは間違いないだろう。

たとえば「俳句のようなもの」が存在するだけで、俳句そのものは滅んでしまった未来というものを想像してみる。私がすべての俳人に望むのは、読むことの喜びを与えてくれる俳句作品を生むことである。もし世界にそのような俳人がいなくなったとしても、私が読みたい俳句は私自身が作れば良いのではあるが……。

THCに集まる俳人たちを見ていると、私が生きているうちにそのような状況が訪れるとは思えない。喜ぶべきことだろう。


1 comments:

Y.M. さんのコメント...

以前なら、たとえば小学生に俳句を作らせるとき、
従来の方法では必ず一物仕立てで作らせていたという話を聞いて本当かと思いました。
そんなの経験者でも正直難しすぎます。
それと比べれば、12音で作る方がどれだけとっかかりとしてやりやすいか。

俳句の楽しみをどんどん知っていけば、12音から入った初心者も
自分から既存の作品に当たっていってちゃんと
既存の技法を手にしていくものではないかなと思います。