2007-11-11

師匠、ではなく 宮嶋梓帆

師匠、ではなく ……宮嶋梓帆



いきなりだが、「師匠・北大路翼」と言われても、私にその実感はない。私は師匠という言葉は好きではないし、彼は私の師匠ではない。私と翼氏の関係はそう深いものではない。会った数を数えるに至っては片手で十分、手紙のやり取りも同様である。ただ、

「京都で逢おう」

貰ったどの手紙にも、そう書かれているということは、今になって発見した法則だ。3年程前から、このようなやり取りを幾度か繰り返した。私は京都に住んでおり、翼氏は東京に住んでいる。私が東京に行けば会い、翼氏が京都に来れば会った。春や秋、京都が美しく染まった頃に、翼氏からの手紙は届く。一筆箋マニアとの呼び声は高く(?)、いつも可愛らしい便箋に丸い文字は書き落とされている。

私は「逢う」の使い手に対して、ある種の警戒感を抱いてきた。単なる「会う」ではない「逢う」に対して、私はどれだけの照れを感じてきたことか。「会う」ではない「逢う」に対して、私がどれほどの嫌悪感を抱いてきたことか。必要以上の意味は、必要ない。ともすればオヤジ言葉であると、非難されることすらある。

だが、きっと翼氏の「逢う」には照れも嫌悪感も、何もない。加えて、悪気もない…だろう。きっと純粋な「逢う」なのだ(と私は信じている)。彼が性をテーマとしていることは周知の事実。だが、性でしか語れない北大路翼など面白くないということは、句会を共にしたことがあれば、多くの人が気付いていることであるはずだ。

今、改めて翼氏から届いた手紙の全てを読み返してみる。1年前、2年前…翼氏から届く手紙には、やはりいつもこの「逢う」が記されているではないか。私は今もなお、「逢うアレルギー」が完治していない。「逢う」と平然と使えるようになりたいものです、師匠。

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