2007-12-09

上州の反骨 村上鬼城 第2回 抵抗の精神 斉田仁

上州の反骨 村上鬼城
連載第2回  抵抗の精神   斉田 仁



            連載第1回 新時代・明治と若き日の鬼城


明治四十三年『ホトトギス』第十三巻第十号、六月号に鬼城はつぎのような写生文を載せている。題して「上京」。

私は幼少にして、父母に従て、コゝに参りました。私の父母は、何の為に故郷を去りましたか、どこをどう歩行てコゝへ、落付ましたか、更には、分りません。只、幼さい時に、倒さに、流れて来たンだツて、母の、いふのを、聞いたことがございます。(中略)

私の、運命は、父母が、東京を去た時に、已に、定まったのヂャあるまいかと云ふやうな、ことに迄、考へ及びまして、私は、何ンとなく悲しくなります。(中略)

東京へ、何ンに行くと、問はれますれば、私は、返事に窮します。私は、申すまでもなく、敗残者の子弟でございます。堂々笈を負うて、遊学すると云ふ如きは、私共の、思うて及ばぬこととあきらめて居ります。


前回書いたように、鳥取藩の江戸詰藩士であった鬼城の父小原平之進は明治維新において禄を喪い、なおも江戸から遠く離れた上州にまで流れてきた、その一家の当時の切々たる実感を書いたものである。

明治中期、鬼城が英語を習ったり、自由民権運動に力を注いでいくのは、こうした鬱屈の血が体の中を流れていたからである。

さらにこの後、鬼城は俳句に出会ったが、生涯の宿痾となった耳を病み、若き日に培ったさまざまな経験を生かすこともできなくなっていく。そして家族を抱え、高崎裁判所の一代書人として、糊口を凌ぐ生活が続いていくのである。

こうした事実を土台にすれば、鬼城の俳句が、人生を諦観したいわゆる境涯俳句といわれるのは、一つの見方としてはよくわかる。しかしそれはあまりにも皮相的な見方ではないか。これでは上州という風土をあまり理解していないのではないかと私は思うのである。

上州は空っ風の国である。まして鬼城が暮らした高崎の町はその真っ只中にある。十一月頃から日本海を越え、越後を渡った雪が谷川岳に突き当たり、乾いた風に変わっていく。その風が赤城山や榛名山を越えて高崎の町に吹き下ろしてくる。こんな風と戦いながら、上州人はいつも暮らしてきた。

上州の人々は冬になると風に向かって立つ。決して風から逃げたりしない。風の中に立つとこの国の人々は不思議に反発の心が生まれる。田舎者で口べただから、あまり多くはしゃべらないが、短い言葉で反骨の心を語ろうとする。

私は、これは短詩型の心と一致すると思う。だから、鬼城の中に諦観などを見ては駄目なのである。病苦の身や苦しい生活を抱えながら、彼の心の奥底には、いつも反骨の精神が燃え盛っていたのではないか。彼が詠った身の病苦や、当時の苦難の中にいた小農を詠んだ句はいつも一つの抵抗であると思うのが正しいのではないか。

むしろ、俳句という短詩の型をうまく生かしているのではないかと私は考えるのである。ナマな感情をそのまま述べないが、モノを描写することによって示した奥底にあるものを、私たちはもっと深く鑑賞する必要がある。

鬼城という人は、今日言われている境涯の俳人ではなく、抵抗の俳人といったほうが私にはぴったり来る。鬼城作品の持つ今日的意義もまさにここにある。

(つづく)



※『百句会報』第113号(2007年)より転載(タイトル・本文に若干の改稿)

1 コメント:

さんのコメント...

お邪魔します。桜です。村上鬼城 連載第二回、拝見させていただきました。
「上州の人々は冬になると風に向かってたつ」のくだり、どちらかと言えば私の中では戦闘的なイメージのある村上鬼城の俳句の輪郭と一致して興味深いです。何かしらいつも怒っているような、それでいて深く嘆いているような、時として悲惨なくらいに心柔らかく、また、時として静謐。多面的な魅力のある句風の秘密を探るうえで、彼の人生やエッセイに迫るこの連載、面白く読ませていただいております。第三回、楽しみに待ちます。