2007-12-02

中村安伸 秋思

中村安伸 「秋 思」



 はつふゆや切り取り線をゆく鋏   加藤かな文

鋏が一匹の獣のように意思をもち、紙を裁ちつつ進んでゆくかのよう。鋏で紙を裁つという行為は、鋏を握る人ひとりの意思のみによって為されているわけではない。そこには、切り取り線を引いた人の意思が存在し、さらに言えば、紙というもの、鋏というものを生み出した人々へとさかのぼってゆくこともできる。



 日本語を話せて読める秋思かな   寺澤一雄

たとえば自分自身になんの価値もなく、むしろこの世から消えてしまったほうがいいのではないか、という思いにかられることもまた秋思のひとつと言い得るだろうか。そんな思いにとりつかれてしまったときにこの句に出会えたとしたら、そこに救いを見出すことができるだろうか? 残念ながらと言うべきか、私はそこまでハッピーな気分でこの句を読むことが出来ない。この句に「書ける」という項目が無いのは、音数の制約により省略されたためのみだろうか。私には作者に「話す」「読む」に「書く」を並列させることに対する、書き手としての(誇りの裏返しとしての)含羞があると感じる。そのことこそが作者の「秋思」につながっているのかもしれない。



 月面が芒を過ぎてから見ゆる   鴇田智哉

中世ヨーロッパでは日光が熱をもたらすのに反して、月光は熱を吸い取ると考えられていたらしい。その把握は極端であるにせよ、日光の反射にすぎない月光には冷たいという実感がある。芒はさらにその月光を反射してやわらかく光っている。月が芒を「過ぎ」た。夜の更けるにしたがって月が昇ったのか、あるいは視座のほうが移動したのかは明確にされていない。する必要もない。ひとかたまりの光であった月と芒が分離する。そのことによって作者は月を、ひとつの天体として認識するに至る。外部に起きた変化が波紋のように内面へと影響を拡げ、それによって外部に対する把握の仕方もまた変化するということ。これはそのような作者の内面のゆらぎこそが書かれた作品であり、この作者はそれを書いてきたのだと思う。



久保山敦子 「月の山」10句  →読む 鴇田智哉 「ゑのぐの指」10句  →読む 寺澤一雄 「生姜の花」30句  →読む 加藤かな文 「暮れ残る」10句 →読む

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