馬場龍吉 フツーに読んでみる
まったくフツーの人なので、そのようにフツーに俳句を読んでみる。
さつきから太陽に蝿枇杷の花 加藤かな文
この作品の言葉の捻れは成功している。日のあたる枇杷の花に来ている冬の蝿。そう言ってしまっては、ただそれだけのことに過ぎない。写生派の高野素十ならこうは作りはしないだろう。「太陽に蝿」としたことによって太陽の黒点のようでもあり、太陽の周りを付かず離れず飛び回っている蝿が見えてくる。それは「さつきから」という言葉の介在があってのことだが。
はつふゆや切り取り線をゆく鋏 同
はつふゆの質感は、もう雪を連想させてくれる。紙の山折り谷折りというパターンは良く目にするようになったが「切り取り線を行く鋏」の「はつふゆ」が動かない。国道をゆく除雪車を俯瞰しているような、炬燵に入りながらの工作に雪が降っているような寂寥感がある。
生姜から生姜の花を育てけり 寺澤一雄
「生姜の花」が全体のタイトルだから、さぞや清楚な作品が並ぶだろうと読み進めて行く〈長き夜の終りて通勤電車かな〉で始まる三十句。いや次には出てくる、その次の次には出てくる。いやずっと出てこない。
生姜を育てるのは生姜を得るために植えるわけだが、作者はその花を見てしまった。こういう面白味は寺澤氏の得意とするところのようだ。〈手を上げる運動会の大玉へ〉運動会で手を上げるものは? というなぞなぞの答えは「大玉」だ。因果のようで因果ではない。不思議な感触がここにもある。
円盤も槍も回転天高し 同
円盤投げの円盤と槍投げの槍。と理解するのが妥当だが、実は円盤とはUFOなのだ。とは作者は言っていないが、UFOに向かっていく槍があると思うと宇宙戦争のようでなんとも楽しくなる。
松茸を写真に撮つてから食べる 同
松茸の風味、形態、調理法には触れていないところが潔い。きっとうまかったのだろうと察しがつく。
この人の手に掛かるとなんでも俳句になってしまいそうだ。「通勤電車」「隣のビル」「休刊の俳句雑誌」「運動会の大玉」「銀河系」「大宮の駅前」「映画看板」「品川」「駅前飯店」。
掲句をはじめとして、これがいわゆる現代俳諧と言うものかもしれない。
秋の夜の赤いボタンを押してみる 鴇田智哉
まさか本当に押しはしていないだろうが。釦をみるとなんでも押してみたくなる衝動に駆られるのはなにも作者だけではない。その辺の深層心理を微妙にくすぐって面白味を出しているのが鴇田作品の醍醐味なのかもしれない。
草の香にあしたのことを思ひつく 同
普通何かを思い出すのは視覚、嗅覚、聴覚に触れたその連想からの事が多い。例えば道路を歩いていて後ろから来る自転車にベルを鳴らされ、ベル→自転車→危ない→自転車→さっき自分が乗ってきた自転車のカギを掛けたまま付けっぱなしにしていたことを思い出す。と、たいていは関連性のある連想が多いのだが、掲句では「草の香」をヒントに何かを思い出している。「草いきれ」が鼻を通して脳にピンと来た瞬間を言いとめている。
羽の国の羽毛のやうな鱗雲 久保山敦子
「羽毛のやうな鱗雲」が読み手のこころの青空に広がって爽やかだ。〈Unokunino/Umounoyouna/Urokogumo〉とu音の韻の深さがふわっとあたたかい作品。
十句はたったの十行だが、この十行で奥羽を駆け抜けることが出来る。俳句のありがたさを再認識させられた作品群。一言で言ってしまえば久保山氏は手練である。
わがままを通すままこの尻ぬぐひ 同
継子の尻拭い(トゲソバ、ハリソバ)、おそらく俳句をやっていなければ出会うことなく、目にしたとしても「草」のひとつとして認識されただけの植物だったであろう。
わがままを/通す/ままこの尻ぬぐひ
わがままを通す/ままこの尻ぬぐひ
わがままを通すまま/この尻ぬぐひ
「わがまま/ままこの尻ぬぐひ」の「mama音」からの連想の作品だとしても、読みようによってさまざまに読める仕掛けがここにあり、一句は奥深い。
これよりの月太りゆく月の山 同
山並をなぞるかのように月は上り、やがて中天を目指してゆく。あたかも月山の頂上を。繊細と骨太、硬軟のめりはりを使い分けできる久保山作品がまぶしい。
■ 久保山敦子 「月の山」10句 →読む■ 鴇田智哉 「ゑのぐの指」10句 →読む■ 寺澤一雄 「生姜の花」30句 →読む■ 加藤かな文 「暮れ残る」10句 →読む
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2007-12-02
馬場龍吉 フツーに読んでみる
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