2008-01-20

成分表14 マグロ納豆 上田信治

成分表 14 マグロ納豆 
上田信治

初出:『里』2007年2月号



デザイナーやカメラマンといったビジュアル関係の職業の人には、とぼけた人柄の人が多い。

以前よくいっしょに仕事をさせてもらった、Yさんという年長のデザイナーもそうだった。

Yさんは、居酒屋に行くと納豆関係のメニューをよく頼んだ。そして「このマグロ納豆は、世界一美味しいね」と、目の前のそれに気軽に「世界一」を進呈してしまう人だった。

もとよりYさんに、マグロ納豆の世界一を認定する資格などないのだが、それに異議をとなえる人もなく、皆ただニヤニヤと聞き逃すのだった。

たまたまその夜、我々が入った店のマグロ納豆が、世界一で「ない」可能性は高い。世界一っていうのは、ほら、もっと美味しんぼとかに出てくる店が、裏メニューで出したりするものなんじゃないですか。

でも、もしそれを口に出したら、どんなに下品な発言になるか、みんな気がついていたのだと思う。そして、少しでもそういうことを思ってしまった自分の下品さに、こっそり傷ついていたのかもしれない。そう考えると、Yさんもすこし人が悪い。

いかに我々が平凡な人生を送っていようと、それが、このマグロ納豆が世界一でないことを証明するだろうか。否。第一、美味しいし。

だとしたら、ありもしないグルメなそれと比較して、いま目の前にあるマグロ納豆の価値を減らして、何になるだろう? 

Yさんの発言は、いま一同でいるこの店を、世界一と思わ「ない」ことの禁止になっていた。


   飯蛸の一かたまりや皿の藍  夏目漱石


俳句は、日々かんたんに沢山作られるので、つい、一つ一つに価値がないように思えたり、その時その場のものとして、歴史的名句とはあらかじめ別レベルに存在するもののように、思えたりする。

しかし、目の前のマグロ納豆が絶対であるように、月々の句会で出あう句も、また絶対である。

多くの句を読み、そのあまりのどうでも良さに、すぐ忘れてしまう。しかし、どうしてか、そのいくつかを思い出すと、ほとんど幸福と言っていいような気持になる。

その句を記憶しているのは、作者と自分だけかもしれないと思うと楽しい。

その夜Yさんが、自分のマグロ納豆を言祝いだように「この句は、世界一おもしろいね」と、言ってみたくなる。

   ラーメンの好きな取的秋高し  伊嶋淡々




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