俳句ツーリズム 第12回
高尾山篇
感情のコレクション ……小野裕三
のっけから私事で恐縮だが、昨年11月我が家に長男が誕生した。生まれた後も大変だが、生まれる前も気を揉む。だが、とりあえず無事を祈って待つ以外には実はそんなにできることはない。子供は授かり物という言葉が、妙に実感を持って感じられた数ヶ月だった。
そんなわけで、生まれる前にはいくつかのお寺に安産祈願に行った(もちろん東京で有名な水天宮なども含まれる)。今回の高尾山も、実はそのひとつである。もともと、高尾山には一年くらい前からよく訪れていた。
高尾山は東京近郊の行楽地として有名で、先日ミシュランが発表した日本の観光地格付けリストでも堂々の三つ星に輝いたそうだが、東京近郊にある自然に恵まれた地、ということでは確かに希少だ。そのミシュランガイドのお陰もあって、最近は高尾山を訪れる行楽客も増加傾向とか(ただしその反面で事故も増えているそうで、安易な気持ちでの登山にはくれぐれもご注意を)。
雰囲気が清々しくて気持ちがいいし、ちょっとした観光地気分も楽しめる。そして、実は僕の家からも比較的近い。朝早く起きて出かけて登れば、昼にはもう下山することができる。午前中は高尾山、午後は家に戻って家事その他に取り組む、ということもできる。週末の手軽なリフレッシュの場所としては、うってつけなのである。
出産からちょうど一ヶ月が経った日曜の朝、例によって早起きをして高尾山に出かけた。朝の京王線は、いつもハイキング客でいっぱいだ。やや高年の夫婦や仲間みたいなグループ、それから壮年くらいの両親とその子供、などなど、多様な人々が明るい雰囲気をぎっしりと電車に詰めて走っていく。車内から既にガイドブックや地図を開いている人があちらこちらに見受けられるのも行楽気分を盛り上げる。
高尾山口駅から山の入り口までちょっとした参道のようなものがある。ここで、ときおり高尾山周辺の開発工事に関する反対運動のビラを配っていることがある。詳細はよく知らないが、高尾山の下を潜る巨大なトンネルを作るのだ、とか。高尾山の素晴らしい環境にはそんなわけでいろいろお世話になっているので、僕も署名をしておく。
高尾山を登っていくルートにはいくつかある。もちろん、ケーブルカーで登ることもできるが、僕の場合はだいたい登りは歩いていく。天気のよい朝は、行列になるくらいたくさんの人が道を歩いていることもある。特に、僕の最近のお気に入りは琵琶滝を経て薬王院まで登っていくルート。歩き始めると、ちょうど近くを歩いていた小さな女の子が父親と会話をしているのが耳に入る。
「この山に、天狗さんがいるの?」
「いるんだって」
なんだか微笑ましい会話だが、子供が出来て以来、こういった親子の会話にも自然と注意が向くようになった。誰かがやはり出産のエッセイに書いていたのだけれど、妊娠や出産が身近な出来事になると、自然に世の中にいる妊婦や子供にもこれまで以上に目が行くようになる。これまで見えてなかったものが見えてくる、と言ってしまうと少し大袈裟になるのだが、多かれ少なかれそういう部分は確かにある。
ところで、そんなわけで高尾山は天狗信仰の山としても有名。いろんなところに天狗の銅像も立っている。いや、天狗の像だけではない。よく見れば石仏や祠などの類もあちらこちらに存在している。
琵琶滝を経て登るルートだと、最初に目に付くのが岩屋大師。弘法大師が訪れたという伝説は周知のように日本各地にあるが、この岩屋大師もそのひとつ。弘法大師の法力によって岩壁に突如洞窟が出現し、そこで病んだ母と娘の親子が雨宿りしたというのがその言い伝えらしい。
しばらく登ると、琵琶滝。近くにお堂もあるのだが、年末なので大掃除の最中だった。そこから少し登ると、ちょっと広場に石仏が並んでいる場所がある。紅葉と木漏れ日の作り出す雰囲気が実に美しく、しばし見とれる(写真1)。そこからしばらく登ると、茶店などが並ぶ賑やかな参道に辿り着く。
付近には土産物屋や茶店の他、「サル園・野草園」というちょっとした植物園・動物園のようなものもある(写真2)。その名のとおり、猿と野草があるだけではあるのだが、猿山は猿山で見ていてなかなか愉しいし(ちゃんと飼育係の人がマイクで解説をしてくれる)、野草は野草で普通の植物園などではなかなかないかも知れない地味な野草にも脚光を当てていて、俳人にはかえって都合がいい。いや、俳人だけではない。カメラ片手の集団も、高尾山ではよく目にする。あと、どこかの少年団みたいな一行を「ファイト!」などと声を掛けて大人が引率していくグループもよく見かける。あとは、ミシュランガイドのせいか最近は外人観光客の姿も多い。ともあれいろんな種類の人々が集まってくる、まさしく都民の憩いの場というのは偽りではない。
ずっと歩いていくと、「百八の石の階段」というものがある。「なむ、いづなだいごんげん」と念じながら登るべし、という説明書きがあるのでそのとおりに登る。と、登っていると、先を親子が歩いていた。親の方がだいぶ先を歩いていて、もう階段を登りきる寸前くらいの位置にいる。
その親に、小さな子供が「パ・イ・ナ・ッ・プ・ル」と言いながら近づいていく。ははん、じゃんけんをして勝ったほうが進んでいくというあの遊びだな、と思い当たる(グーなら「グ・リ・コ」、チョキなら「チ・ョ・コ・レ・ー・ト」、そしてパーが「パ・イ・ナ・ッ・プ・ル」と唱えてその音の数だけ歩数を進める)。僕が登るのと並行して、子供はどんどん登っていく。
「パ・イ・ナ・ッ・プ・ル」
「パ・イ・ナ・ッ・プ・ル」
「パ・イ・ナ・ッ・プ・ル」
ん……、さっきから子供ばかり進んでる。しかも、「パ・イ・ナ・ッ・プ・ル」ばかり?とうとう、子供は親を追い抜いてしまう。先に上に辿り着いた子供は自慢そうだ。
「あんなに離れてたのに、パパを抜かしちゃったよ」
親は「そうだなあ、パパ、負けちゃったなあ。どうしてかなあ?」と大袈裟に首を傾げ、そして子供はどこまでも得意そうだ。そうか、グーを出し続けてあげたんだな……。なんだか、少しいい物を見せてもらった気分になった。
ところで、この階段を登った先の参道や境内にはたくさんの句碑、歌碑が並んでいる。寺社などにその類のものが立っているのは決して珍しいことではないが、それにしてもここの数は多い。有名なところでは、次のような俳人の句を紹介しておこう。
むささびや大きくなりし夜の山 三橋敏雄
仏法僧巴と翔る杉の鉾 水原秋桜子
高尾山を訪れる機会があったら、ぜひどこに句碑があるか探してみてほしい。数ある句碑の中から見つけ出すのも一興である。
★
ところで俳句の世界には、吾子俳句と呼ばれるものがある。
万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男
吾子俳句でもっとも有名なものはこの句だろうか。吾子俳句は、正直作るのも評価するのも難しいと思う。普通の対象物ではなかなかないような愛情がそこに注がれてしまうので、作る方も見る方もその目がどうしても曇ってしまいがちだ。要するに、純粋に作品の出来として吾子俳句を評価することが困難なように思うのだ。
しかし吾子俳句の是非はともかくとしても、最近何だか世界が広がったなあ、と思うのは事実だ。先にも触れたが、例えば妊婦や子供といった存在にこれまで以上に目が向くようになった。いやそれ以上に、やはりこれまで知らなかったような感情の種類が少し増えたような気がする。いわば、自分の中の〝感情のコレクション〟が少し豊かになったような気がするのだ。もちろん、家族を増やすことだけがそのような感情の種類の増加に繋がるのではないだろう。それにはいろんな形がありうると思う。ただ、どんな形にせよいろんな感情を経験していないと(喜怒哀楽のすべてを含め)、なかなか表現が広がらないというのも事実ではないだろうか。これは観念論でなく、体感としてそう思う。
一昨年、自身の句集を出したときに、ある人から「○頁目から印象が変わりました」という不思議な礼状を頂いた。その頁とは、表面的に見ている分には何の変化もない一頁だった。だが、時代順に句を並べていったその句集で、そこはちょうど僕の結婚の時に当たる頁だった。そのことを指摘できた人も相当に慧眼だと思うが、そのときに僕は「結婚でやっぱり何かが変わったのかなあ」とあらためて思った。きっと、そのときから僕の感情のコレクションが少し増えたのかも知れない。
だから子供についても、直接的に吾子俳句を云々というよりも、きっとそのことによって増えた感情のコレクションがこれからじわりと作用していくのではないか、と、そんなことを思っている。
★
ところで、そんなこんなで辿り着いた高尾山の薬王院は紅葉が綺麗だった(写真3)。無事に安産と命名の報告を済ませる。お寺の前には、子供たちの姿も多い。子供の小さな手袋が、お寺なのにその前でパンパンと手を打っているのもなんだか可愛い。護摩祈祷の時間になると、法螺貝を吹きながら僧侶の一団が現れるのも高尾山ならではの光景である。
そして、昼過ぎにはまた下山。いつも登るのは徒歩だが、下山はケーブルカーを利用している(写真4)。車内に流れるアナウンスによるとここのケーブルカーは日本一の急勾配を走るらしいが、確かに車体はかなり前のめりに傾いていて、車内にわっと歓声が上がる。ちなみにケーブルカー以外にリフトカーというのもあって、こちらは少し時間が掛かるものの天気のいい日は実に気持ちがいい。
下山した午後早めの時間帯には、駅前の広場でイベントのようなものをやっていることが多い。ハワイアンを歌っていたり、演歌を歌っていたり、内容はいろいろだ。あと、高尾山の近くで言うと、トリックアート美術館というものがあって、ここもけっこう楽しめる。時間がある方はぜひどうぞ。
※ちなみに、高尾山での環境保全運動に興味のある方は下記などをご参照ください。
http://homepage2.nifty.com/takao-san/http://www.takaosan.info/kenoudou.htm
写真撮影:小野裕三
■■■
2008-01-06
感情のコレクション 小野裕三
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿