林田紀音夫全句集拾読 006
野口 裕
「吹田操車場」と題する二十一句がある。時期は昭和三十一年。鈴木六林男の「吹田操車場」と同時期である。
歩く他なし鉄路無限の操車場傍観者に貨車の重量次々消ゆ
日差しふんだんに操車場鉄の秩序
冒頭の五句から三句。鈴木六林男は…
寒光の万のレールを渡り勤む白煙白息漏れ陽が太き柱なし脚絆も黒く若き君等の冬深まる
…となる。手近の春陽堂俳句文庫の、抄出から冒頭四句のうちの三句。
「傍観者」、「君等」と、それぞれの特徴と思われる句も抜いた。描写力はさすがに六林男だが、紀音夫の方が正直ではあるなあが、一見したところの感想。
しばらく、比較しての拾い読みとなるだろう。
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制動靴白し或ひは忘れられ
点在の制動靴のみ白き冬(鈴木六林男)
鈴木の注に、『「制動靴」、逃げる(停止線を通過した)貨車を停めるためにレールの上に置いた靴の形をした鉄製のハ止め。』とある。
貨車の牛も突放されて同じ速度貨車に託し徹夜の疲労突放す
突放(とっぽう)つづく歩きつづける任務の肩(鈴木六林男)
対象への感情移入の違いが興味深い。
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惜しまれて蹠(あうら)突出す死のねむり
かっこ内は足偏に庶。コードにない字のようだ。上五が皮肉に響く。
熔接の面とれば何処にでもある顔
作者にとって熔接中の人は街の変貌を促す異形の人に見えただろう。面を取ってみるとごく普通の人だったことへのとまどいを、文明論へ飛躍せずに写し取る。
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立飲む牛乳ばらばらの目算を抱き
ちょっと今後のヒントになりそうな文を見つけたのでメモしておく。
--意味のない言葉を使うのも非常に困るんですけれども、あの人たち(注.金子、高柳、島津、堀、等の前衛俳句)の使ってる言葉には意味が多すぎますね。意味が多すぎると、一句の中で言葉が相殺する。イメージが分裂する。ところが、その逆を言っているのが林田紀音夫ですわ。彼が書く俳句はみんな意味があるんですよ。意味と意味を相殺してしまって、そこから別のイメージを立ち上がらせてくる。これは林田しかやらなかったですね。要するに彼の俳句は饒舌なんですよ。意味のある言葉が多い。言葉が殺し合いをする。そうすると残ったイメージが立ち上がってくるわけです。個々のイメージを踏み台にして立ち上がってくる。踏み台にされた言葉が、立ち上がってくる言葉を恨んでるわけですよ。その恨みのエネルギーが、立ち上がってくる言葉を支えていると思うんです。そうすると作者の思いが残りますね。もっと長生きしてほしかった人ですね。
(座談会「戦後俳句は幻想だったのか」から、鈴木六林男の発言・『俳句朝日増刊1999 現代俳句の方法と領域』)
しかし、「踏み台にされた言葉が、立ち上がってくる言葉を恨んでるわけですよ。」とはなんじゃらほい、と思いながらも、エライ言葉だ。
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2008-02-17
林田紀音夫全句集拾読 006 野口裕
Posted by wh at 0:20
Labels: 野口裕, 林田紀音夫, 林田紀音夫全句集拾読
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