【週俳1月の俳句を読む】
情景のかき立てた一瞬のざわめき
すずきみのる
手毬子の影踏まれたり轢かれたり 谷口智行
長閑な世界が一転してドキリとする情景へ転換する、この切り替えの巧みさが、俳句の醍醐味の一つ。もちろん轢かれるのはあくまで影なので、子ども達の遊びにも、新年の穏やかな景にも、何一つ影響を与えることはない。ただ、作者の内面において、情景のかき立てた一瞬のざわめきが、一句を仕立て上げる。写生句でありながら、ありきたりでないところに、作者のしたたかな言葉の使い手の一面が際立っている一句。さらに、諧謔味も。
初荷よりこぼれし菜なり啄める うまきいつこ
初春のうらがへしあるバケツかな 大穂照久
元旦や物干竿に日の当たる 松本てふこ
いずれも、いわゆる写生の句。出来る限り意味性を背後に隠して、仕立てられた句。どの句も、新年の穏やかな情景が詠われる。日射しを受ける物干竿を詠った句、バケツが裏返され伏せられた状態であることを詠った句、さらには路上にこぼれる菜とそれを啄む鳥の姿を詠った句、いずれもごくありふれた情景であり、取り立てて詠うまでもないこと。しかし、そこに「元旦」「初春」「初荷」という季語が絡むことで、ありふれた情景が一気に新年の穏やかで長閑でゆったりとおめでたい風景に一変する。最初に、出来るだけ意味性を背後にと書いたが、あるいは季語がこれらの句の意味性を一手に担っているようだ。
年の夜の栞のさしてありにけり 鴇田智哉
先の3句に対して、この句は季語と季語以外の部分とが相乗効果を発揮して、「栞のさしてあり」という情景が、単なる眼前の景というだけでなく、象徴的な情景として詩的に昇華されているという印象を受ける。虚子の「貫く棒」が旧年と新年を貫通する時間の流れ(と変わらざる意志)の象徴であるなら、挿してある「栞」は時の中断と密やかな断念の象徴であるのかもしれない。
矢のやうに過ぎゆく一生手毬唄 冨田拓也
「おもくれ」という言葉がある。観念性の勝った、内容的に「重たい」句の事をそのように評するようである。この1句もまた「おもくれ」の句と呼べる内容の作であろう。無常観そのままとでもいう上5・中7の世界に対し、季語は通奏低音のように幽かに、その世界の背後で鳴り響いている。しかし、それが心地良い。バロック的世界の顕現を感じる。「おもくれ」には「おもくれ」としての活路があるのではないかと、ふと思う。
巨きな手が 世界を記述する ゴドーの黙示 宇井十間
「おもくれ」の最右翼と言えば、この1句ということになるだろう。さらに、翻訳文体風、6・9・7の変則的リズム、無季。投稿句群の極北に位置する1句。果たして、新しい年は黙示録的世界の再現となるのだろうか。あるいは、新たなる黙示録の1ページとなるか。キリスト教的素養に欠ける者にとっては、それそこ絵空事的内容ということになるやもしれないが、人により地域によっては非常なリアリティを以て受け止められる句、という事になるのであろう。
餅花をすこし揺らして開店す 齊藤朝比古
曳猿のやや着崩れてをりにけり さいばら天気
人日の軽い頭痛を持ち歩く 佐藤登季
「軽み」という訳ではない。ただ、こんなにさりげない物が素材となり、一句が成立するというところに、俳句の凄みと面白さがあると思う。「餅花」のわずかな揺れ、猿回しの猿の衣装の少しばかりの「着崩れ」、身の内に感じるか、感じないかの微かな痛覚。暮らしの中の細やかな陰翳をわずか17文字がふわりと掬い上げる。俳句とは、愛すべき文学形式だとつくづく思う。
■特集「週俳」2008新年詠→読む
■青山茂根 珊瑚漂泊 10句 →読む
■村上瑪論 回 天 10句 →読む
■対中いずみ 氷 柱 10句 →読む
■岡村知昭 ふくろうワルツ 10句 →読む
■茅根知子 正面の顔 10句 →読む
■上田信治 文 鳥 10句 →読む
■
■
■
2008-02-03
【週俳1月の俳句を読む】すずきみのる
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿