2008-02-03

【週俳1月の俳句を読む】澤田和弥

週俳1月の俳句を読む】
もう一度布団にもぐって頭だけでも
澤田和弥



開閉のたおやかなりし姫始  津田このみ

この「姫始」は姫飯を食べる方の意味ではなく、男女の交わりという意味でとりたい。昔、石橋貴明が「心開けば股開く」と言っていた。

「開閉のたおやかなりし」から男女の交わりをイメージすることは難しい。本来その表現とは異なるカテゴリーに属す「姫始」を下五に持ってくることで異なる次元の言葉たちが1つの句として調和を生む。

芸術とは日常生活における異物である。異物だからこそ芸術との衝突が非日常の世界へといざなってくれる。その体験を十七音に凝縮したものが俳句であり、このような句なのだと思う。

その流れでいうと…

湯豆腐に瓦礫ののこる寧けさよ  青山茂根

…が挙げられる。「湯豆腐」「寧けさ」に対し、「瓦礫」という言葉は異物である。しかし1つの句として調和している。勿論異物の混入による不安定さも持っている。不安定且つ調和。それは危ない橋である。だが人は危ない橋と知っていながら渡りたがる。石橋を叩いてわざわざ脆くしてから渡るような生き物である。調和的且つ不安定なものに人は惹かれていく。まるで私の女性の好みを言っているようだ。そのような20代~30代前半のサディスティックな女性がいらっしゃったら、ご一報をお待ちしている。

着ぐるみの覗き穴から去年今年  石原ユキオ

着ぐるみの中にいる人物が主人公である。その視線は諦観と無感動を帯びているように思う。人々が新年に向けて浮かれている。楽しんでいる。その中に着ぐるみがいてもちょっとしたアクセントであり、景として平凡かもしれない。しかしその中にいる人物となれば話は別である。主人公は覗き穴から見える世界を淡々と傍観している。主人公として一人称であると同時に傍観者として三人称でもある。にぎやかな人通りにおいて主人公は完全に他者であり、別の時間の中を生きている。覗き穴の向こうは常に異空間である。着ぐるみというフィルターの中で主人公は何を感じ、何を考えているのだろうか。何も感じていないようにも思う。そこに魅力を感じる。

乱歩にしても寺山にしても覗く者は日常空間に対し、常に他者である。世界には介入できない。しかし俳句をつくるということはこの他者の視線で世界を眺めることではないだろうか。


階段の動きつづける寒さかな  茅根知子

地元の公共施設に屋外に設置されたエスカレーターがある。週末には人出のあるものの平日はほとんど利用されていない。平日に利用するのは私のような暇人だけである。一応センサーがついていて一定時間人が通らないと止まり、人が近づくとまた動き出す。私一人が利用して振り向くとエスカレーターはまだ、動いている。屋外にあるせいもあろうが、その景に流れているのは或る種の寒さである。人が介在しない寒さ。階段は動き続け、私はいつか死ぬ。それは不条理であり、且つ当然である。残された人生の中で私はあと何回エスカレーターを利用するのだろうか。ふと気になる。


元旦や物干竿に日の当たる  松本てふこ

縁側の椅子に布団が掛けてある  上田信治

この2句は日常の景である。しかし十七音の言葉で切り取ることにより、日常と非日常のあわいを突いている。

俳句は十七音である。それは日常に話す言葉に対して微々たるものである。しかしその十七音が日常会話では到達できない非日常への突破口となる。日常というroutine workを十七音でどれだけ切り裂くことができるか。それが俳句の本領だと思う。


偉そうなことを言ってしまった。恥ずかしい。あまりに恥ずかしいのでもう一度布団にもぐって頭だけでも隠しておこうと思う。ちなみに今は平日の午前9時42分である。皆様、お仕事頑張ってください。おやすみなさい。




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