2008-02-17

一遍上人論 私性の誕生と「うた」の漂泊(1) 五十嵐秀彦

一遍上人論
私性の誕生と「うた」の漂泊(1)……五十嵐秀彦




初出:『藍生』第206号・2007年11月1日(十七周年記念号)


宝厳寺にて

松山の道後温泉本館裏の坂をのぼってゆくと、ネオン坂と呼ばれる飲み屋街がある。かつての松ヶ枝遊郭の跡地であるという。私が訪れたのは昼であったためか、日の光に晒されているネオン坂は、ずいぶんさびれて見えた。

そのゆるやかな坂をさらにのぼり続けると、道の突き当たりに山門が見える。それが宝厳寺である。門の手前すぐのところに黒くうずくまる異形の建物がある。一見して空家と分かるその旅館のようにも見える古い建物は、かつての遊郭「朝日楼」の遺構であった。

寺の眼前に遊郭があるのだ。

それは確かに奇異な風景ではあるが、一遍聖の寺と思えば、自然なことのようにも思えるのだった。

こんもりとした山を背負った静かな寺。時宗宝厳寺。この土地で一遍智真は延応元年(一二三九)に生を受けた。寺は六月の陽光を浴びて沈黙していた。山門からふり返ると灰色のネオン坂が人影もなく陽に灼かれていた。

*

私が一遍上人について考え始めたのは、平成十八年に「山本健吉と中上健次 花鳥風月の原風景」(『文学の森』二〇〇六年夏号)を書いたとき、正確に言えば論の着想を得た平成十七年暮のことだった。その時は中上健次論を書こうとして、熊野関係の資料を読み漁っていた。その中に網野善彦の『中世の非人と遊女』があり、『一遍聖絵』について、その絵図に描かれている中世の人間群像への網野の鋭い考察に衝撃を受けると同時に、一遍という人物への大きな興味を持つこととなったのである。私は「山本健吉と中上健次」の中に、一遍のために一章を割いて自説を述べた。それは一遍を語るには、あまりに短いものであった。

その際、一遍の熊野成道(じょうどう)に日本人の精神史の大きな転換点があったのでは、と私は感じた。それがどのようなものであったか詳しくは後述するが、もちろん一遍ただ一人が精神史を転換させたわけではない。だが、その時代の典型としてきわめて印象的に歴史に一遍の足跡が遺されたのである。

一遍が時衆と呼ばれる集団を作り、諸国を遍歴したこと、尼僧もともない男女共同の集団であったこと、あらゆる宗派から独立していたこと、鎌倉仏教の中で異例の本地垂迹派であったこと、経典を作らずひたすら和歌・和讃を残したこと、観念を排除し行動中心の思想であったこと、一代限りを宣言したこと、霊場巡礼を重視したこと、多くの非人・病人が時衆のあとをついてきたこと。

こうした一遍時衆の特徴を知るにつれ、捨聖一遍という独りの遊行者が、その後の日本人の精神に大きな影響を与えたに違いないと思うに至ったわけだが、また俳人である私は、一遍の言葉、一遍の行動が、その後のうたの世界を支える精神に通じることとなったのではないか、とも考えるようになった。現代の私たちの俳句や、短歌、あるいは私小説にも見られる私性の根源が、一遍の生きた時代に誕生したのではなかろうか、とも思うのだった。

今回、私は本論において、一遍上人を見つめることで、これらの疑問に私なりの答えを探してみたい。

しだいに日が傾き始めた宝厳寺の境内に、私の影がゆっくりと伸び始めていた。



第一章一遍の出離 その時代背景

一遍は伊予の豪族・河野家の人であった。河野家は平家との戦いで功をなしたが、承久の変において後鳥羽院側につき、その結果一遍の祖父通信が奥州に流された。父河野通広(みちのぶ)については処罰の記録はなく、承久の乱当時は出家していたものと思われる。通広はその後還俗しているが、息子一遍を出家させたのはなぜなのか。

そこには武家にまつわるさまざまな事情があったのだろう。承久の変を目の当たりにした通広は、主従関係を重んずる武士が、そのつかえる主によって親族同士殺しあうこともあり(承久の変の時、河野氏の中で幕府側についたものもいた)、またその領地の問題で相続の争いもありがちであることから、一遍を出家させたのではないか。

父の通広は法名を如仏と称し、京の西山上人(証空)から浄土三部経の教えを受けたといわれている。証空とは法然の弟子であり、浄土宗西山派を起こした人物である。一遍にとって父が浄土宗の僧であったこと、その縁で自分も父と同門の大宰府の聖達上人のもとで教えられたことが、その後の彼の生涯を決定することとなった。

一遍の思想の基礎を知るためには、ここで寄り道のようにはなるが、浄土教系の鎌倉仏教について知っておく必要があるだろう。

鎌倉時代というのは、権力が朝廷から武家に移った時代と捉えられがちだが、その権力の移行はいまだ完全ではなく、朝廷も一定の力を持っており、二重権力構造であった。社会的にも平安末期の世相、文化を色濃く残していた。宗教的には、平安末に始まった末法思想が仏教界を大きく変える原因となったと考えられる。末法思想は中国の「三時説」から生まれ、わが国では平安末期の永承七年(一〇五二年)に末法の世に入ったと言われた。

その末法思想の登場が、それまで鎮護国家を第一としてきた仏教に変化が起こさせることとなった。貴族たちが現世の安寧よりも来世の極楽の保証を仏に求め始めたのである。そのための喜捨、堂塔伽藍の建立が盛んになっていく。戦乱の続く現世は末法が嘘ではないことを示していたし、永遠に続くと思われた天皇権威による神聖王朝は、「野蛮な」武士たちに力で崩されようとしている。いまこそ仏に祈り来世の安楽の保証を得たい。そう貴族たちは考えたし、仏教界側もそれに応えたはずだった。

集まる喜捨によって寺院は強大となった。寺もまた末法の世に存続するために私兵を養う状態であり、崩れゆく王朝への危機感を持っていたのであろう。そんな時代の仏教界をまさに代表する存在であった延暦寺の中に、一人、時代状況に疑問を持つ男が現れた。法然である。

末法の恐怖からのがれたいと希求しているのは貴族だけなのか。喜捨をし、善を積み、極楽への指定席を得る権利は貴族にしかないのか、現世の苦海に沈んでいて、救いを求めているのは貴族ではなく、むしろ庶民であろう。しかし、彼らは喜捨をするものを何一つもってはいない。貴族たちが手を汚さずに暮らせるために庶民が手を汚して暮らしている。殺生戒を犯さねば生きられぬ者たちも多い。

貴族が救済される権利を持ち、庶民にそれがないのはなぜか。仏とはそのような存在なのか。末法観の広がりとは「罪と救済」の考え方の普及でもあった。

法然は比叡山の官僧であったが、天台宗のあり方に疑問を持ち、一一七五年に四十三歳で比叡山を離れ、新たな宗門・浄土宗を創る。一一九八年に『選択集』を著し、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経を根本経典と制定した。浄土教は、無量寿経にある阿弥陀如来が誓った四十八願の内の十八番目の願文に重きをおいている。それは、「設(たと)い我仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽(しんぎょう)して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれざれば正覚(しょうがく)を取らじと。」という誓願である。

簡単に言い換えると、法蔵菩薩は正覚し阿弥陀如来となるときに、衆生が全て浄土に生まれ変われないのであれば、自分は正覚しない、との誓いを立てたという。そして法蔵菩薩は阿弥陀如来となり、浄土において教えを説かれているというのである。つまり、それは阿弥陀如来を信じることによって、浄土に救済されることが約束されているのだという意味になる。であれば、寄進や寺を建てたりせずとも、阿弥陀仏を信じ祈りさえすれば誰もが浄土に渡れることになる。それは、喜捨する財を持たない庶民にとって福音であった。同時に、これまで貴族の庇護のもと権勢をふるっていた既成仏教界にとっては、その存在を根底から揺るがす邪教に見えたことだろう。

一二〇四年に比叡山は法然と浄土宗に念仏停止を命じ、一二〇七年には讃岐に流罪にしてしまう。

一一八一年に延暦寺の下役僧となった親鸞は一二〇一年に法然の弟子となり、法然とともに罰せられ越後に流罪となる。法然、親鸞が許されたのは一二一一年のことであった。

一遍が生まれたのはその二十八年後の一二三九年である。浄土宗への弾圧の嵐が過ぎ去り、宗門の基盤が出来、また親鸞による浄土真宗がさらに新しい教義を展開している時代に一遍は生まれた。親鸞が『教行信証』を書いたのは一二四七年のことであった。

末法という思想が、人に罪の意識を植え付け、免罪のための喜捨を人々に求めていた仏教に、否を突きつけたのが法然とそれ以降の浄土教宗派であったのだろう。

阿弥陀の誓願により衆生はすでに救済されている。念仏を唱えさえすればよい。一遍が、十三歳という多感な歳で出家したとき、仏教界は革命期にあったのである。

*

時代は保元・平治の乱、源平の争闘、鎌倉幕府の成立、承久の乱、蒙古襲来と激動していく。父の通広は、承久の乱に巻き込まれた河野家の人としては奇跡的に罪を免れた。しかし、主に仕える武士という存在は、状況によって同族が互いに戦う悲劇を演じるという不確かなものによって生死が翻弄される。そんな武士の宿命を、自らの体験と、僧としての見識から感じ取り、一遍をそのような武士の非情な宿命から遠ざけようとしたのかもしれない。ともかく一遍、幼名松寿丸は十三歳で父の指示にて出家するのである。

父が一遍を修行に送った先は、京都でともに学んだ仲間であり今は大宰府にいる聖達上人であった。途中、肥前の華台上人のもとでも学び、そこで法名を智真とした。この第一回目の出家は、一遍にとっては留学のようなものであり、大陸との玄関口であった文化のレベルの高い大宰府の地で、仏教だけではなく当時の知識人の基礎教養を学習したことだろう。のちの一遍の文才や詩才を見ると、この時期に基礎的な教養を身につけたものと思われる。

しかし、父の死によって、一遍はいったん還俗する。一遍の兄弟に関しては諸説あるようだが、高野修によると、通朝、智真、仙阿、通定の四人兄弟であったという。三男仙阿はのちの宝厳寺住職。四男通定は異母弟でのちに一遍と行動を共にすることとなる聖戒である。二男智真も混乱した時代に武士として生きることの困難や、あるいは相続の問題などから父が命じて出家したのであろうが、それが一旦還俗したのは長男通朝が死んだからかもしれない。

還俗した一遍が再出家した理由ははっきりしないが、説はふたつある。ひとつは、領地あらそいにまきこまれ殺人に至る闘争があり、その罪を悔い出家したとする説(『縁起絵』)。もうひとつは、正妻と妾との愛染妄境に出家の動機を指摘する説である(『北条九代記』)。おそらくどちらもが動機だったのではなかろうか。

いちど仏法を学んだものにとって、殺生は許しがたいことではある。しかし平清盛のように出家し入道と呼ばれながら争闘を好み、矛盾を感じなかった武士も当時は多かった。そこには一遍の一途で潔癖な性格があったのであろう。また、当時、妻と妾が同居するのは珍しいことではなかったが、昼寝をしている二人の髪が蛇となって、からみあっている幻視があったという伝説(『北条九代記』)も、一遍の潔癖な性格をあらわしているのかもしれない。

領土争いと愛憎問題。このふたつが一遍を再出家に向かわせることとなった。愛憎問題はいかにも後世の作り話のように見えるかもしれない。しかし一遍の伝記『聖絵』を読めば、それは十分にありえたことと思える。なぜなら二回目の出家のあとでいったん一遍は家にもどり、超一という女性と、超二という少女を連れて旅に出ているのである。この二人を正妻と子とみるか、妾と子とみるか、説の分かれているところではあるが、家督を捨てて旅立つ男が家に妾の親子を置いてゆくだろうか。また、正妻の側に出家する理由があるだろうか。私は超一と超二は妾とその子であろうと思う。

『聖絵』では、熊野成道ののち一遍がこの二人を「放ち棄て」たとなっている。二人は故郷の聖戒のもとに帰されたと見るべきだが、『聖絵』をたんねんに見てゆけば、超一と思われる尼の姿がいくつかの場面に描かれている。そして「時宗過去帳」に、超一の往生の記録がある。栗田勇によれば、過去帳の超一往生の時期の直後にあたる法話で一遍が愛染妄境を語っているとの指摘もある。

それらを考えれば、一遍出家の理由のひとつに愛憎問題があり、それが遊行中もけっして消えていなかったのではないかとも思われるのである。この二つの出家の理由は、その後の一遍の信仰に大きな影響を与えたのではなかろうか。殺生戒、女人、このふたつの救済にかける思いの強さを一遍の生涯から感じるのである。

さらに私は一遍の背景として、河野一族が水軍であったことにも注目している。水軍は海族である。陸に領地を持ちながらも、水軍である限り海の民との交流は濃いものであっただろう。海の民は、当時の既成仏教から見れば殺生戒を犯す者であった。農民と異なり、彼らは仏教世界において地獄落ちを宿命とされている民であった。そこに一遍の往生観のバックボーンがあったのではないか。

しかし同時に有力な武家の出身でもあった一遍は、当初は当時の差別観から必ずしも自由ではなかったと思われる。それゆえ二回目の熊野での成道が重要な意味を持ってくる。そのことは次章で語ることとして、一遍が河野水軍の出であるということを、重要なキーワードとして記しておく。


(次号につづく)


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