2008-03-16

林田紀音夫全句集拾読 010 野口 裕


林田紀音夫
全句集拾読
010




野口 裕




息かけて拭く記憶の父を映す硝子

理詰めで考えると、ガラスに何かが映るときにはガラスの向こう側はこちら側よりも暗い。あちら側は過去につながる異界であり、記憶の父を呼び起こす像は自画像である。ガラスを拭くための動作は休んではいないだろうが、頭の中は追憶で一杯になっている。情景は「白い息」という季語と非常に近いところにあるが、追憶を際だたせるためにあえて消したか。

ちなみに、第二句集のここに至るまで妻の句はよく出てくるが、父母の句は非常にまれな印象がある。

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父母の句は非常にまれ、と書くと、そのあと父の句が何句かでてきた。

父よりさびしく盃に夜を注ぐ

青のゆらめく無惨な酔いも父の死後


後句に続いて、次の二句がある。

いつか星ぞら屈葬の他は許されず

滞る血のかなしさを硝子に頒つ

塚本邦雄「百句燦燦」には、「鉛筆の遺書」と「滞る血のかなしさ」、二句が取りあげられているが、俳句門外漢の頃の私にとって、林田紀音夫の名は、「鉛筆の遺書」よりも「滞る血のかなしさ」とともに記憶されている。

「許されず」と書いているが、屈する前に反抗があったようには見えない。流血ではなく、血も静かに抜き取られた。昆虫標本のように硝子上に置かれる血。林田紀音夫が「血」の特性として上げているのは、生命のシンボルとしての血ではなく、色でもなく、凝固性なのだ。

確かにそれは、彼の句の特色をペシミズムと呼ぶにふさわしいものだろう。だが、受け身でありながらも、一面で冷静な意志につらぬかれた観察眼がもたらしたものでもある。

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濡れて消える煙草証言の後に似て

う~ん。「屈葬」にもかすかにあったユダの感覚がここにもある。しかし、これは思い過ごしではないかという気もする。何ともきめかねる。

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母胎につながり水いろの灯の暮れ方

海鞣されて耳に棲む父その他

六月の河の緩行母には似ず

父母の句の印象が薄い、と書いてしまったので、逆に「父」、「母」が入っている句に目が行ってしまう。もっとも、父母とも遠く離れた源流のようなものではある。

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瓶かたむけたウイスキー瞼の卒塔婆

国語入試問題風に「要約せよ」と言われると、「ウイスキーと卒塔婆」となり訳が分からなくなるが、林田紀音夫はごく自然につながるようにウイスキーの状態と卒塔婆が脳裏に出てくる状況を描写する。緩やかな時間の流れがあるが、第一句集の失業と胸疾の頃を思えば、作者ならずとも隔世の感に満たされる。

ピアノは音のくらがり髪に星を沈め

写すときに、「星沈め」とタイプしていた。もう一度本文を確認すると、「星を沈め」となっていた。この「を」は、リズムの上で重要な役割を果たしている。リズムを整えると、描写だけに終わるように感じるところが、「を」によって、描写される髪に読み手の意識が引き寄せられる。

対象となっている髪は配偶者のものではないだろう。隔世の感がある。

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酒に流したペン先の藍ふたたび

えらい洒落とるやないか。

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胴の重たい曇天が垂れ煙突生え

次の頁に、「長女亜紀誕生」と前書きのある句が登場する。したがって、この句は生誕前の重苦しい雰囲気と取れないこともない。だが、それは一応外して考えよう。

「胴」と「曇天」のDOの音と、「垂れ」と「生え」での「…a…e」の効果的な繰り返しが憂鬱な気分をいやが上にも高める。天と地に挟まれた中空に生息する頼りない存在。そんな物思いにとらわれる句だ。「曇天」も「煙突」も生命あるもののように見えてくるが、さわやかさはない、生命が無意味なものとしてせり出してくる。

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 -長女亜紀誕生

レールをわたるそのひとりの生誕

生後すぐのたたかい満面に蟹棲まわせ

嬰児翅生みゆりかごの父を責める


泡の言葉のみどりご鉄の夜気びつしり

十五句ほど長女生誕に関係したものが続くが、その中から抜粋。正直パスしようかとも思った。だが、やはり拾っておこうという句もある。

「レールをわたる」が、人生の悲惨を連想させる。だが、そう言っている口の端から笑みがこぼれるようなところあり。

「ゆりかごの父を責める」は、ちょっと甘いかもしれない。

「満面に蟹棲まわせ」や「泡の言葉のみどりご」が、印象的な言い回し。

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産院のなまあたたかい廊下で滑る

渡邊白泉の「憲兵の前で滑つて転んぢやった」、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」をどうしても思い出してしまう句。製作年代が昭和三十九年頃だろうから、昭和四十二年没の渡邊白泉は、まだ存命の頃。

場違いの産院にとまどう男一般の姿とも言えるが、「なまあたたかい」に凝縮された現状認識を感じる。昭和三十九年は東京オリンピックと名神高速道路と東海道新幹線の年。あの頃から急速に風景は変わった。

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軍艦を沈めたいろの哺乳瓶

こんなところにまで軍艦が登場する。林田紀音夫には決して消えない記憶があり、それを次代には伝えてはならないとするストイシズムがあるような気がしてならない。




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