2008-03-23

スズキさん 第10回 天使 中嶋憲武

スズキさん 第10回 天使   中嶋憲武



頭が痛い。額に大きな瘤が出来ている。

この間、機械を動かしている時に、滑り止めの指サックを落してしまい、それを拾って立ち上がろうとした時に、機械のレバーへ頭をしたたかに打ちつけた。

天罰が当ったと思った。

特別に何か仕出かしたわけではない。自分をじっと見ているような、誰かの目を遠い背後に感じていて、その視線に対する後ろめたい感情に、いつも囚われている。

自分はまともな者ではないという思いの、甘美な感情に傾いていると言い直すこともできるだろうか。坂口安吾の学生時代のように、「余はのちに偉大なる落伍者となって、諸君の前に再び姿を現すであろう」というような思想のひとかけらもない。

ただの甘えや狡猾さを以て、日日生活しているので、自転車に乗っていて段差を踏み外して横転しただの、鴨居に頭をぶつけただのした時に、頭上にくるくる回る光の輪のなかに、天使が現れて、
「天罰よ」
と言って立ちどころに消える。

そのような事件が何回あったことだろうか。そういう事件は、このドラマのなかに出てくる人には、ひとりとして無いだろうと思いながら、スズキさんと「ちりとてちん」を眺めていた。

このところ、暖かな日が続いていて、昼めしを食っている三畳の仏間の、大きな扇風機みたいなハロゲンヒーターを750ワットから300ワットにした。正面のテレビジョンの後ろの曇りガラスに差している日も柔らかくなっている。三月いっぱいで、このドラマも終るので、終結へ向けて急速にまとめにかかっているような印象がある。僕がそう言うと、スズキさんは肯定とも否定とも付かないような返事をした。

「ちりとてちん」が終って、国会中継が始まると、僕もスズキさんも、空になった仕出しの弁当箱や、ソース壜や、箸などを持って立ち上がる。

「じゃ、ナカジマ君、頼むね」と、スズキさんは言った。午後一番で、スズキさんの配達を手伝うことになっていたのだ。

胸の奥深くに横たわっている昏い靄のような感情を抱いたまま、前方の風景を見ている。車は馬道の交差点に向かっている。

「今日はあったかいですね」と、感情とはまるで無関係な言葉が出てくる。そうでなければ、日常をやりくりできないからだ。交差点近くにある「ハッスルラーメン」の看板が左手に見えてきた。この看板を見ると、昔、クレージーキャッツの映画に「ハッスルコーラ」というのが出てきて、それに影響を受けた僕は、家にあった未開栓のコーラ瓶に、マジックで「ハッスル」「ハッスル」と全てに書き込んでしまい、親に叱られたことを思い出す。

僕も、ハッスルしなきゃ、と思う。ニセモノの自分を抜け出て、ホンモノの自分になるために。

スズキさんは、ハッスルしていた。

仲見世の裏通りへ車を停め、人形焼屋の裏口から、二階の倉庫へ人形焼を詰める箱を運び込み、二階で待ち受けているスズキさんに渡すのだ。荷台から僕が箱を降ろして運ぶのを、スズキさんは階段の途中まで降りて、待っていてくれた。10箱ほどに括り付けられた箱を手渡すとき、スズキさんは「ハッ」と掛け声を入れて、受け取った。階段の途中まで降りて、スズキさんが箱を受け取ってくれるときは、気合いが入っているときだ。スズキさんが元気なので、僕も影響を受けて、ハッスルコーラを一気飲みしたように、てきぱきと荷台から箱を降ろした。

配達が終って、会社へ戻る車中、僕とスズキさんはアルギンZを飲んでいた。これはスズキさんの奢りだ。カーラジオは、気の弱そうな男がぶつぶつ喋っていたが、突然ビートルズの「レット・イット・ビー」がかかった。街を歩いていたりして、どこかの店から不意にビートルズが聞こえてきたりすると、わくわくしてしまうのだが、このときもわくわくした。

初めからビートルズの曲だと判っているときは、それをビートルズの曲として認識して聴くが、街なかで不意に曲の途中から聞こえてきたりすると、一瞬、誰かの新曲かと思ってしまうことがある。先日、下高井戸の商店街を歩いていて、「ペイパーバック・ライター」が途中から聞こえてきた時、その錯覚を味わった。ビートルズが解散してもうすぐ40年になろうとしているが、そのような嬉しい錯覚を今でも味わうことができる。

フィル・スペクター盤のアルバムでは、ジョン・レノンの「ジョージがやらないって言うんで、ここいらで、ホラ、天使がやってきたっていうのをやります」という短い紹介のあとに始まる、この「レット・イット・ビー」をわくわくして聴いていると、スズキさんがおもむろにボリュームを下げた。

僕は青空がにわかに曇りだしたような気分になって、
「スズキさん、ビートルズ、好きですか」と尋ねてみた。スズキさんは、
「出始めの頃は、なんだかうるさかったけど、だんだん静かな曲も出すようになって、好きになってきたよ。レット・イット・ビーとかイエスタデイなんか、いいね」と言った。

なるほど、スタンダードになっている曲が好きなのだな、と思った。それにしてもあまり大きな音量だったわけでもなく、好きと言っているにかかわらず、なぜボリュームを下げたのかという疑問は残る。

僕はそこは尋ねなかった。額の瘤は痛む。



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