俳句とは何だろう ……鴇田智哉
第1回 俳句における時間 1
初出『雲』2007年1月号
「時間」とはどんなものだろうか。たとえばそれを、視覚的にイメージするとすれば。
まず考えられるのは、物差しとか川といった、直線のイメージである。物差しの目盛りの一つ一つが「秒」であり、ある一方向へその目盛りを辿っていく。或いは川を、下流に向かって辿っていく。そのように時間とは流れているものである、というイメージ。このイメージを一言でまとめるとしたら、次のようになるだろう。即ち、「時間とは、一方向へ向かって直線を辿ってゆく流れである」と。これを「流れる時間」のイメージと呼んでみよう。
「時間」について、これとは別のイメージはないだろうか。たとえば次のようなものはどうだろう。
途方もなく広い湖がある。地球よりも、銀河よりももっと、十分に広くて、とても深い湖が広がっている。湖の水は限りなく透明だ。そこへ空から、一滴のインクの粒が落ちてくる。インクは濃い。落ちてきたインクは水面に当たって、崩れて、水面のそのあたりを揺らす。そしてインクは、ぼやけながら広がり始める。そのあとは、いつまでも、いつまでも、インクは広がりながら果てしなく薄められていく。一滴のインクが落ちてからというもの、この湖の「今」は、この湖の「さっき」とは違うようになった。そして、この湖の「今」と「さっき」とは常に違っている。このイメージを一言でまとめるとしたら、次のようになるだろう。即ち、「時間とは、さっきと違う今がいつまでも続く現象である」と。このイメージを、先程の「流れる時間」のイメージに対置して、「滲む時間」のイメージと呼んでみる。
「時間」というものに対する感じ方として、ひとまずこの二つを挙げておきたい。この二つのイメージは、どちらが正しいということではなくて、一人の人の意識の中においても、その都度入れ替わるものと思う。
たとえば、何か目的があるとき、たとえば仕事とか旅行とかで、正しく電車に乗り、正しく目的地に到着するためには、「流れる時間」のイメージがなければならないだろう。一方、一枚の絵画の前に佇むとき、本を夢中になって読んでいるとき、横になって一日の疲れを休めているとき、自分の好きな場所にきてただ座っているとき、そんなときに感じているのは、「滲む時間」だろう。
「時間」というものを視覚的にイメージするとき、少なくとも二つのイメージを考えることができた。そもそも「時間」とは視覚ではとらえられないものなのだから、そこに複数のイメージが存在するというのは、当然のことである。
ところで、これは「視覚」に関してだけではなく「言葉」についても言えるのである。「時間」とか「時間性」という言葉を使うとき、そこに込められている意味は一定ではない。人によって違っているし、同じ人でも文脈によってその都度違っていることがある。
俳句について述べられた文章で、「時間」「時間性」という言葉が出てくることがあるのだが、筆者によって、そこに込めている意味が違うことに気がついたのである。そこで、「時間」という言葉に込められた意味を、一度考え直さなければならないように思ったのである。
きっかけになったのは、次の文章だ。
私は、俳句をすぐれて一つの時間詩、と思っている。
一には、「瞬間」――私の謂う現瞬間――という特殊な時間の直感的把握を作す、またそれを可能にする詩が俳句だと思うから。
(阿部完市『絶対本質の俳句論』)
俳句とは「時間詩」なのだという。阿部氏はここで「時間」というものについて、どんな意味を与えているのだろうか。次の言葉がヒントになる。
今・現在というだけ、それだけで人が自らの生あるいは死を考えようとするとき、当然にその前と後というものを考えた。すなわち現在とそれへの過去、未来――すなわち三世の思想。そして、とくに今というもの「現」瞬間を中心として、「時間」という一直線――線分という有限ではない。無限の――の上の、一瞬間・現瞬間の燃焼、その姿の具現を、私は俳句一句と考えている。
時間に対するこのイメージは、一見、先程の「流れる時間」に似ているし、共通する要素もある。が、違っているところもある。「今・現在」ということに重きがおかれている部分である。ともかく「今・現在」というものがあり、そこを中心に、「前」「後」が移り変わっていく、ということ。ここでいわれる「今・現在」は、むしろ「滲む時間」のイメージに近い。「今・現在」に重きをおく彼の時間の感じ方は、次の言葉にも表れている。
意識され――自覚されたとき、その「時間」は自己にまた他者に、要するに人間の間に存在するようになる。人人に意識されないとき「時間」は実は存在しない。
「意識」しなければ何もない。その「意識」によって、「時間」をよく、十全に観念する――その観念の一手段としても「俳句」一句一句は存在すると謂われてよい。
時間は、意識することによって時間となる。その意識の仕方の一つとして「俳句」がある、というのが阿部氏の考えである。こうした考えをもち、精神科医でもある彼は、ある実験を試みている。
(来週号に続く)
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