【俳誌を読む】
『俳句界』2008年3月号を読む ……五十嵐秀彦
●早春大特集 人形-その愛といつくしみの世界 p121-
3月、そして俳句といえば、雛祭り。だから人形、という特集。そうとらえてしまうと月並になってしまうが、「人形」それ自体はなかなか妖しいモノであり、月並ととらえるのはこちらの発想が月並であるから、とも言える。
黒田杏子の「『雛』の句を選びつづけて」では、筆者が「吉徳ひな祭俳句賞」の選者を初めてつとめた時のエピソードが語られている。
《「雛」をテーマに、あなたの想いを自由に詠みこんだ俳句をお待ちします。という呼びかけに、俳句は一句も記さず、それぞれのお雛さま体験、物語りをこまかな文字ではがき一枚にびっしりと書き連ねたものがどっと届く。四十代半ばの選者に、未知の六十代、七十代の女性のたましいのかたちが押寄せてきた》
そうなのだ。人形というのは、どれもこれも人の形代なのである。人形にこめられた思いは、ある種の憑依となって立ち現われるのだろう。
森賀まりの「怖さと懐かしさ 人形句鑑賞」は、雛人形に限らず、人形の句を挙げて鑑賞をしていて、この特集を意味あるものにしている。
菊人形となりて裏切者見据ゑむ 波多野爽波
《生花を用いるということ自体その人形は寿命を抱え込む。裏切り者もそれを見据える正義の者も等しく、枯れてゆく菊を美しく纏っているのである》
捨て人形風花に眼をひらきゐる 能村登四郎
《この句はある歳時記で「流し雛」の例句として採録されていた。しかしこの捨てられた人形はビスク・ドールでもぬいぐるみでもかまわない。人形の瞳が実はどこも見ていないことで、私たちは折に触れさまざまな表情を思い、親しんできたのだろう》
含蓄のある句鑑賞が並んでおり、雛祭のイメージに流されない文章に共感した。
特集の最後に置かれた桐田真輔の「人形写真のたのしみ」には、正直ギョッとさせられた。一種のドールハウスなのである。その人形が、バービー人形とジェニー人形で、精巧なドールハウスの中で二体の少女玩具がポーズをとっている。どこをどう見てもオタクの遊びにしか見えない写真を並べて、筆者は《「小さきもの」を愛でる感覚、世界をコンパクトなミクロコスモスに封じ込めてみたい、といった感覚は、盆栽や借景や人形浄瑠璃に親しんできた、この国の文化や芸能の伝統とも、あながち無縁ではないように思えるのだった》と言うのである。
人の心の中に人形という物体が占める薄闇のような「場」を思わずにはいられぬこの異色エッセイは、「人形」をテーマとした企画の締めくくりにふさわしいかもしれない。
失礼ながら、こんな不気味な写真を載せた俳句総合誌は過去に一誌もなかったことだろう。ひょっとすると「快挙」であるやもしれぬ。
●「となりの芝生から」 天沢退二郎 「『私』という問題」 p20-
私はこういう他ジャンルの作家が俳句について語るという企画が好きだ。俳人のエッセイがステロタイプ化しやすいのに比して、思わぬ角度から俳句に光を当ててくれることもあるからだ。しかし今回の天沢の「『私』という問題」には、あまり感心できなかった。それはおそらく一人称ということを取り上げたからだろう。
俳句が持つ一人称の曖昧さに目をつけたのには理解できる。これはもっと俳人たちが真剣に語るべきテーマだからだ。だからこそ、詩人・天沢退二郎がこれをどう料理するのかと興味津々で読んだわけだが、どうも面白くない。
《俳句における「私」なるものの特質が、つまりは「俳句」というジャンルを成立させ、同時に、ふしぎな曖昧さ、不透明さ、手に負えなさをもたらしているのだ》
《他のジャンルに比べて極端な短さだから、「わたくし」「あたし」「おれ」「ぼく」などの一人称代名詞は仲々入る余地がない。しかし読者はそんなものがなくても勝手に「作者」「語り手」「主人公」としての一人称〔私〕の存在を感じ取ってしまう》
これは既に多くの俳人が言ってきたことで、本屋に並んでいる俳句入門書を開けばいくらでも出会える意見ではなかろうか。そしてさらに、俳句と川柳との比較へと話が進み、川柳には前述したような「私」の問題はない、と言い切る。
こういう意見を、間違っているとか言って責めるつもりは毛頭ない。おそらく多くの俳人たちから賛同される意見だろうとさえ思う。でも、現代詩という「私性」の詩の泥沼で闘い続けてきた詩人の言としては実に食い足りない。
実は一人称の問題こそ、俳句に限らず、この国の文芸の大問題であるにもかかわらず、なんだか肩透かしを食らわされたような気分になってしまった。俳句における「私」という問題を取り上げるのなら、もう少し自分の血を流してはどうか、と思うのだった。
●竹中宏 特別作品「みじかい舞踊」52句から p28-
意味性にとらわれないゴツイ句が並ぶ。こういう作品を前にして、理解できるとかできないとか言うことは貧しいことだ。
小流れの鐵扉くぐるが茂吉忌ごろ
涅槃變胴體着陸ばらける螺子(ヴィス)
白れんの縦にふかき景から出られぬ
なにに逢坂暦には明日なき春
麥秋や無縁となりて峠ゆく
(漢字は旧字が使われており、できるだけ配慮したが一部原作どおりではない字を使わざるをえなかった。お許し願いたい)
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2008-03-02
『俳句界』2008年3月号を読む 五十嵐秀彦
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