2008-03-02

スズキさん 第9回 ラビット 中嶋憲武

スズキさん
第9回 ラビット   中嶋憲武



仕事が終わる頃、スズキさんが今夜は会社の車で帰るので、どこか都合のいいところで降ろしてあげるから、乗っていかないかと言う。社長のお母さんもそうしなさいと言うので、俺は乗せて行ってもらう事に決めた。根がさもしいので、人の好意をすぐに受けてしまう。断る事は、十中八九無い。千回に三回は本当の事を言う。そういうふうに俺というものが出来ている。

今夜も冷える。冷たいシートに腰を落すと、正確無比な速さで寒さが頭のてっぺんまで這い上がって来た。

スズキさんが、どこが一番都合がいいか聞くので、俺はちょっと考えて、最寄りの鴬谷を上げたが、スズキさんは「それじゃいつもと一緒じゃない」と言うので、「スズキさんは車で帰る時、いつもどうやって帰るんすか」と聞いてみたところ、高田馬場を通ると言うので、高田馬場で降ろしてもらう事にする。翌朝に朝一番で、配達に行く時は、スズキさんは会社の車で帰っているようである。

言問通りに出て、信号待ちをしている時、スズキさんがなにやら鞄をごそごそやっていたかと思うと、クッキーのようなものを取り出して、「練馬サブレ、食べる?」と言った。
「練馬サブレ?」
「そう、これ、練馬で売ってるんだよね」と言って、俺に差し出した。一見、鎌倉の有名な鳩サブレみたいだが、大幅に違う。

ビニールの袋に練馬区の絵が刷り込んであって、筆文字で「練馬サブレ」ちょっと小さめに「大根入り」と書かれてある。サブレは練馬区のかたちをしているように見える。

「スズキさん、これ、練馬区すか?」
「そう、練馬区」と言ってスズキさんは恬淡としている。更にもっとよく見てみると、青カビのようなものが点々としている。
「練馬大根が練り込んであるんで、ぱっと見、カビみたいだけど、違うわけよ」
「練馬大根すか。これ」
「やっぱり疲れた時は、甘いもの取らないとね。どうぞ」と言うので、食べた。味は鳩サブレのようであるが、大根の葉っぱの味はしなかった。
「悪くないでしょ?」
「はい。美味しいっすね」

俺は包装のビニール袋をポケットに仕舞った。これは小さい頃からの習慣である。近くにごみ箱が無い時はそうしている。なんでもかでもポケットに仕舞うので、俺のポケットはごみで一杯になっている事が往々にしてある。

鶯谷の駅を大きく廻り、谷中を通り、東大農学部の横を抜けた。乗り物に乗っていると、俺は俺をあちこちに置いてけぼりにして行く。コンビニエンスストアーの前を通り掛かると、店の中で立ち読みをしている俺をそのままに、信号待ちをして寒そうに立っている俺をそのままに、屋台のラーメンを背中まるめて啜っている俺をそのままに、どこかのオフィスビルから出て来た俺をそのままに。そうやって、無数の俺が夜のどこかに忘れ去られて立ち尽くす。

「緑ちょうちんって知ってる?」
「緑ちょうちんすか?赤ちょうちんじゃなくて」
「今度、緑ちょうちんを出す店が出て来るらしいよ」

スズキさんによれば、飲食店の品物が50パーセント以上、日本産の場合、目印に赤ではなくて緑のちょうちんを出すようになるらしいのである。

「なんだか、気持ち悪いすね。不味そうだし」と俺が言うと、ぷっとスズキさんは吹き出して、
「そうだね。見たことある?」
「ないっすね」
「気をつけて見てんだけど、僕も見たことないんだよね」
「食い物を扱う店は、たいてい赤か緑色使ってますよね。肉と野菜を表してるらしいんすけど」 と、俺はいつもの半可通の知識をさらけ出す。
「緑より赤がいいけどねえ。そのうち慣れるかな」

春日通りを伝通院の交差点で折れて、江戸川橋から新目白通りへ入る。

「前に肉の卸の外交をしていた時にさ」とスズキさんは語り出す。俺は耳をそばだてる。
「肉屋で兎の肉をくれって言うんで、おろしてたんだけど何に使うのかなって思ってたらね、鶏肉に混ぜて売るんだね」
「鶏肉にすか?」
「そう。ラビまぜとけって言うんだよ。」
「ラビ?」
「ラビットのラビね」
「ええっ?それ今の話じゃないすよね。何年くらい前すか」
「そうだなあ、僕が外交やってた頃だから、もう30年くらい前かなあ」
「今だったら大変じゃないすか」
「むかしはさ、どこでもやってたんだと思うよ。丸儲けだよね。北海道の何とか言う肉屋みたいに」
「俺も食べてたんすかね」
「食べてたんじゃないの」
「色はどうなんすか」
「まったくわからないね。ちょうどおんなしような色してるもの」
「ラビかあ。どこでもやってたんすかね」
「やってたわけよ」と言うスズキさんの向うのウインドウを都電が走っている。いくつもの白く光る窓に人影は無い。

山手線にぶつかると、左へ折れる。その道を真っすぐ行くと高田馬場駅前に出た。いままで寂しい道を通ってきたので、砂漠から一気にペルシャの市場に出たような気分である。こんな経験をかつてした。仕事で新大久保へ行った帰り、線路沿いにフランスベッドの横の寂しい道を歩いていると、ぱっと目の前が開け、明るい大通りに出た。人もたくさん歩いている。新宿の西口に出たのだ。その時もまるでペルシャの市場みたいだった。ウシュクダラの唄を口ずさんでしまったほどだ。

「高田馬場の駅はうるさいねえ」
「そうっすか?」
「うるさいうるさい。あれは、ええと、埼京線か。もの凄い音だよ。びっくりして立ってらんなかったよ。赤ちゃんとか年寄りにはよくないね」
「そんなに。あんまり実感ないすけど」
「今度、ガード下に行ってみなよ。凄いから。あれあ、金かけてないんだね。そのまま素通しみたいよ。鉄骨ケチってんだね」
「手抜きっすね」
「そうそう。じゃあ、ここでね」
「はい、ありがとうございました」

車を降りると、スズキさんに言われた通り、ガード下に立って、電車を待った。 電車はなかなか来なかった。寒い。無数の俺の一人になって立ち尽くす。





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