2008-05-18

林田紀音夫全句集拾読 018 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
018





野口 裕




鬼の棲む三日月を見せ肩ぐるま

「鬼の棲む」がなければ完全な吾子俳句。いや、あっても吾子俳句には違いない。月さえ厭わしいと、この子が可愛いが同居できるのはかなり特異な感覚だろう。野坂昭如のエッセイにもそういうところがあったか。


綾とりの朱の弦強く子に渡る
綾とりの母子に水の夜深くなる

彼にしては珍しい素材。二句目はいつもの調子に戻っているが、一句目はさらに珍しく詠嘆がない。この方向を追求して行けば、いわゆる有季定型の概念におさまる句になるだろう。生きている間であれば、それがどうしたこうしたというのも意味があるだろうが、いま読みつつある心境としてはそれがどうしたこうしたは言いたくない。


  

雨傘の低さ幼さはるかに浮く

みずたまりが点々と連なり、あちこちに水の輪が生まれては広がってゆく。私の歩む先をこどもが身の丈にあった低さで傘をさして歩いている。私の歩みが遅れがちなのか、雨の中でもこどもの足が速いのか、もうだいぶ遠くに小さく見える。海になりかねない水たまりに浮いているようだ。

解釈すればこんなところになるだろう。甘いと評する人のいることは十分想像できる。しかし、なんとなくいいなあと思ってしまう。技術的には、「低さ幼さ」とたたみかけるリズムから一転しての、「はるかに浮く」のゆるやかに弛緩してゆくリズムへの転換がうまく、なんとも気持ちが良い。だがそれ以上に、身じろぎもなく遠くの一点を見つめる作中主体のまなざしの真剣さを感じ取る。それゆえに、甘いという評を肯いながらも否定しがたい。


  

坂の夜空へ浮上して気泡のひとり

一等星、二等星が見える程度のしょぼくれた街の夜空でも、それを見上げながら坂を上がってゆくと宇宙に吸い込まれそうな気分になる。自分は単なる宇宙の中の泡なのだ。

時には誰にでも起こり得る感慨。言い損なった感があるが、いくら書き換えても言い損なった感が消えることはないだろう、という気のする句。




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