2008-05-25

スズキさん 第11回 闖入者 中嶋憲武

スズキさん 第11回 闖入者 ……中嶋憲武



蠅が入ってきた。昨日と同じような飛び方をして、昨日と同じ所に止まった。

俺はここで、

  蠅が来て昨日と同じところ止まる

という俳句が浮かんだが、黙っていた。スズキさんは箸の手を止めて、蠅をじっとみた。

昨日、いつも昼飯を食っている三畳の仏間に蠅が入って来た。最近は陽気が良くなってきたので、店へ通じる戸も台所への戸も開けっ放しにしている。昼飯の時間には、決まって蠅が入って来るようになり、多少いらいらとした気持ちで飯を食っていたのだ。

店の方の入口から入って来た蠅は、俺とスズキさんの廻りをぐるぐると大きく廻って、俺の左手にある戸の桟に止まった。

「宮本武蔵なら、箸で蠅を静かにつまむんすけどね」と、俺が言うとスズキさんは「武蔵?」とひとこと。

俺はすぐに殺虫剤はどこかと思ったが、飯を食っているこの時に、あの殺虫剤の匂いは無粋であり、閉口である。

スズキさんは、道具箱をごそごそしていたが、竹製の物差しを取り出すと、その先端に輪ゴムを引っ掛けたものだ。

俺はスズキさんの挙動を見守った。俺の利き腕である左手は、もとより箸を持っているので何か行動を起こすと蠅が飛び去ってしまう可能性がある。スズキさんは、物差しの先端を蠅に向けると、息を殺して、輪ゴムをゆっくり引いた。狙いを定める。蠅は動かず、手をすりすりしている。スズキさんは輪ゴムを放った。ばちっと音がして、蠅に当った。

「当った」

俺は思わず声に出していた。蠅は畳の上でぴくぴくしている。

「ナカジマくん、早くちり紙で」と、スズキさんに言われ、ティッシュを引き抜き、蠅にあてがい丸めた。

丸めたティッシュを屑籠に入れながら、スズキさんの様子を見ると、何もなかったかのように弁当を食っている。俺は鎮西八郎為朝や那須与一を思った。

「すごいっすね」俺が感想を洩らすと、
「たいていね、当るんだよ」スズキさんはすこし照れたように言った。

今日入ってきた蠅は、昨日の蠅にそっくりである。大きさと言い、飛び方といい、止まったところまでも。輪ゴムで撃ち落とした蠅が蘇ったきたかのように。ゾンビなのかと一瞬思う。蠅は昨日止まった戸の桟を飛び立って、我々の廻りをぐるぐると飛び始めた。黒い蠅は黒い影を曵きながら、まるで無自覚無思考のように旋回している。

「また来てますね」
「開けておくと、どうもね。来るわけよ」

五月の蠅と書いて、「うるさい」と読ませる向きもあるが、全くその通りでございますと賛同したくなる季節の到来を、この一匹の闖入者によって思い知らされていた。

スズキさんは、箸を置き、その右手に新聞を持った。蠅が低空飛行してきたところを狙って、スズキさんは新聞紙を一閃した。蠅はするりと身を交わし、畳の上へ止まって、あたりを伺う様子を見せた。

「ほらね」と、スズキさん。
「何が、ほらね、なんすか」と、俺。

スズキさんは余裕ある笑顔を見せながら、
「一回、こう仕掛けると、やばいなっていう仕草をするんだよ。こういう風に」

これは、もしかして蠅を怯ませるためのフェイクだったのであろうか。と、思うが早いがスズキさんは身を翻して新聞で畳を打った。

「取った」

スズキさんが新聞を上げてみると、蠅が動かなくなっていた。

俺はここで、

  新聞に叩かれし蠅死ににけり

という俳句が浮かんだが、黙っていた。

うるさい闖入者の存在が消えてしまうと、元に戻って、テレビを見ながら弁当を食べ始めた。

「ちりとてちん」が終って、「瞳」という月島を舞台にした、ヒップホップダンサーを目指す少女の、食事もすれば恋もする、散歩もするといった態のドラマが始まっていた。スズキさんは、「ちりとてちん」ほど、この新しいドラマが好きではないようである。

番組の途中で、卓に突っ伏して寝てしまうことがよくある。疲れているのかもしれないし、季節の変わり目ということもある。俺も眠っても眠っても、まだ眠いという日がよくあり、たまらなく眠くなる事があるが、まぶたに突っ交い棒をしてドラマを見ている。本当はそんな時眠ってしまえれば最高に気持ちいいということは知っているけれど。

午後1時になり、ニュースのアナウンサーが「1時になりました」という。ドラマからニュースに画面が変ったとき、このアナウンサーは、画面に向かって右下の方をいつも見ていて、やおらこちらへ視線を向ける。右下を見ているときの表情はその日によって違う。すこし微笑んでいるときもあれば、厳しい表情のときもある。右下にモニター画面があって、それを見ているのだろうと推察した。

だからドラマが悲しい場面で終るときは、そういう表情をしていて、幸福に終るときは微笑んでいたりするのだろうと。

スズキさんにそう言うと、スズキさんもその表情をいつも見ていたらしく、「毎日、違うものね」と言って、店の方へ降りて行った。





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