2008-05-11

成分表18 あふれる 上田信治

成分表 18 あふれる 
上田信治

初出:『里』2007年6月号



コップから水があふれるように、人は「多すぎるもの」を、あふれさせるようにできている。

たとえば音楽を聴いていて、何かがいっぱいになって、あふれだすような感覚。

その感覚は、感動に似たものなので、ふつうに「胸がいっぱいになる」と表現してもいいのだけれど。ただそれは、無理を承知でそこにある全ての音とニュアンスを聴こうと努めているときに訪れる感覚なので、ただもうキャパシティを越えて「いっぱいいっぱい」になっている、と言ったほうがふさわしい気がする。

川や海の表面に、朝日や夕日が反射して動いているところを見ると、人はたやすく感動してしまう。

そして、非常にどうでもいい水、たとえば空港のロビーの人工池の表面などに、反射光が動いてキラキラしているのを見ていると、自分が、自然の水と光の風景によるのとまったく同じように、感動できていることに気づく。

それは、やはり何かが「いっぱいいっぱい」になっているのだと思われる。

人の心が大きく動き、あふれるとき、その人は、処理しきれない何かで「いっぱいいっぱい」になっている。
  
たとえば涙は(そして、おそらく笑いも)、人の中の「赤ん坊」の心がいっぱいになったときに、あふれだす、何かだ。

つまり人の感動は、入力される情報の「量」と密接な関係がある。

ところで、人が受けとめる何かの量は、言葉や概念にパッケージされることによって、常に、減殺されつづける。たとえば、情報量の極大をめざして複雑性を高めた表現が、受け手による「でたらめ?」という概念化によって、いきなり情報量0近くまで刈り込まれてしまうように。

言葉にならないもの、言語化や概念化をすりぬけて入ってくる「入力」だけが、人を「いっぱいいっぱい」にすることができる。

だから「分る句」「分らない句」の区別などは、人の感動にとって、わりとどうでもいいことだ。分るも分らないも、表玄関の話であって、言葉にならないものは、いつも、裏口を開けてかってに入ってくるから。


  雲の嘔吐河岸までぎっしりと寝起  橋閒石
  どの家も裏は川なる薄暑かな    〃




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