【週俳4月の俳句を読む】
羽田野 令
本当は歩んでなんかいないから
朧夜を卵をなぞるごと歩む 守谷茂泰
朧夜とは朧月夜の略された言葉だから、この句には月がある。「朧夜と朧月夜とは同じものである」(平井照敏編『新歳時記春』)と書かれていても、朧月夜というと月の美しさが前面に出ているような気がするし、朧夜には茫とした雰囲気の方が強くあるように感じる。
掲句は朧にかすんだ月の夜を舞台に、比喩として登場する卵と歩む私とが、さらに朧そのものを再構成しているような感じがする。つまり、「卵をなぞるごと歩む」ということ全部が作者の内なる朧の喩となっているように思うのである。
というのは、「歩む」と言っているのだが、本当は歩んでなんかいないからである。「歩む」はじっとしているのではないことを表すためにだけ選ばれた言葉のようで、歩むという言葉の本意からは遠い。「卵をなぞるごと」ということは、曲面をあっちへ行ったりこっちへ戻ったりしてぐるぐる回ることだろう。
歩むは、本来移動のための明らかなベクトルを持つ語であり、先には目的となる地がある筈である。最初からそうでなくても結果的にそうなるのが歩むということだ。しかしその様でない、卵に添う歩は、曖昧模糊とした中をたゆたっているだけのように思える。作者の思考のありようのように。丸い面をたどりながら移動してはいるが前へ進んでいかない作者の逡巡。
この「歩む」は楸邨の<おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ>の「ものおもふ」に近いのかも知れない。朧夜という世界に自らのもの思う渾沌が重ねあわせられていて巧みだ。
亀鳴けば前向きに豚生きるといふ 二輪 通
「豚の春」にはどれにも豚が出てくる。動物が人格を持って動くのは、童話のようなお話の世界のことだろう。俳句でそういう世界を作ろうとしているのだろうか。営林署の中を逃げ回る豚を容易に想像することはできるし、どれも人間界の中で順当に動作している豚であって、人間界の人間の誰かと置き換わっても不思議のない豚である。が、豚と密接な村落社会を想定して書いているわけでもないようだ。
豚が人間界とリンクして、一種異界と交錯しているような映画があった。沖縄を舞台にした「ウンタマギルー」という映画だ。その中では豚の化身の妖艶な女が怪しげな水煙草をふかしたり、アメリカ人の高等弁務官は、豚の血を輸血する装置から管を自分の血管に繋いで日光浴をしていたり、と全くシュールな豚の扱われ方があったが、この一連の豚はそうではない。
何かを主人公にして描くということは、小説、戯曲などではごく当たり前のことである。主人公がありストーリーがある。俳句でのそういう試みなのだろうか。
前向きに生きると言う豚は、なにかマスコットの小さな豚が言っているような可愛らしさはあるし、花見の宴の重装備の豚や、ガガーリンと隣り合っている豚というのも、イラストレーションになれるような感じはある。句に書かれている状況のそれぞれは、クスッと笑えるようなものを狙っているらしいのもあるが、実のところあまりよくわからないのである。
■寺澤一雄 「春の服」10句 →読む
■松本てふこ 「不健全図書」10句 →読む
■二輪 通 「豚の春」10句 →読む
■守谷茂泰 「春の坂」10句 → 読む
■佐藤郁良 「白磁の首」10句 →読む
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2008-05-11
【週俳4月の俳句を読む】羽田野 令
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