【週俳4月の俳句を読む】
すずきみのる
二輪 通「豚の春」を読んで
なぜ「豚」なのだろうか、と思う。おそらくこれは、余計な詮索というものだろう。作者にとって、素材の選択にも当然、内的必然性のようなものがあるのだろうし、それに豚というものは確かになかなか魅力的な生き物ではある。不潔のようでいて、その実ずいぶん清潔を好む動物だというし、一見鈍物そうに見えながらも、なかなか利発な生き物のようでもある。小型の豚がペットとして飼われるというもの、宜なるかな、ということなのだろう。
ちょっと話が変わるけれど、随分以前に長山あやという俳人の『芒とや』とい句集を読んだことがある。全編ほぼ、芒を詠うという句集で、読み進むにつれて、句材としての芒が、次第に作者の中で内面化されていくようで、ついには不思議な生き物のような印象を芒に対して持つに至った、という経験をしたことがあった。「をりとりてはらりとおもきすすきかな」が蛇笏の「すすき」であるなら、「枯芒抱きて月日の軽さ抱く」は長山氏の「芒」ということになるのだろう。
さて、二輪氏の「豚」である。作品を通読すると、「豚」というものが「営林署内逃げ回る豚の春」の「生身の豚」に近そうなものから、「観桜のもつとも豚の重装備」の「暗喩」風な「豚」とか、さらに「亀鳴けば前向きに豚生きるといふ」の「寓話的存在」としての「豚」、あるいは時として「豚の不敗神話の中のさくらかな」と狂言回し風なものとしての「豚」のように、「豚」がその本来のありようを越えて多様に描かれていて、その多彩な試みは、面白いな、と思う。
ただ、そこで最初に発したように、なぜ「豚」なのだろうか、との思いがついふと浮かんでくるのも否定しがたい率直な感想ではあるのだ。聞くところによると、二輪氏はもっぱら「豚」の俳句を作っておられるとのこと。さて、この先どのような句作を経て、「なぜ豚なのだろうか」などという疑問を吹き飛ばす二輪氏ならではの「豚」が現出することであろうか。このように思うことは一読者の勝手な思い入れであろうか。
■寺澤一雄 「春の服」10句 →読む
■松本てふこ 「不健全図書」10句 →読む
■二輪 通 「豚の春」10句 →読む
■守谷茂泰 「春の坂」10句 → 読む
■佐藤郁良 「白磁の首」10句 →読む
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2008-05-11
【週俳4月の俳句を読む】すずきみのる
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