2008-06-01

林田紀音夫全句集拾読 020 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
020




野口 裕




第二句集『幻燈』の最後に並べられている世界は、

義肢伴なえば油槽車に極まる黒
足萎えの暦日芝生傾いて


凶年を終る声あげ転倒し


足萎えていよいよひびく掛時計


など、作家の脚部疾患を思わせる句で占められている。これらの中で、

竹のびて内耳明るむしじまあり
乳房かしましく鳥獣日溜りに
骨の音加えメロンの匙をとる

など、聴覚を伴う句にひかれるものが多いのはたんなる偶然だろうか。身構えていた姿勢にふっと無防備になるような瞬間が訪れるようで、こわばっていたものが溶けていくような感覚がある。

さて、彼の生前の句集刊行はここで途切れる。これ以降は、まとめられなかった句群にとりかかる。句集刊行後の昭和五十年以降を先に見ようか、とも思ったが、ページ順にのんびりと漫然と読んでいくことにする。


  


根木打踏むとき土のやわらかし

「俳諧接心」発表作品昭和二十二年〜二十七年、とある句群の第二句目にある。制作年代は発表年代よりもさらにさかのぼるのかもしれない。しかし、今となっては句よりも「根木打」という季語自体に興味がそそられる。「根木打」自体がどういうものかは、歳時記等にあたってもらいたい。

木を用いた遊び道具が鉄の時代への移行と共に釘へと代わるが、遊び自体は伝承されていた。この遊びが滅んだのは、手頃な空き地が舗装されてしまってからだ。一番大切な遊び道具は地面だった。


  

雨のけふ生駒も見えず枯葎

人に蹤き踏みし氷をふりかへる


追ひ越してうしろに女鳥帰る

苜蓿や墓地過ぎてなほ風の韻

「俳諧接心」発表作品昭和二十二年〜二十七年、冒頭のページ上段から抜き出した。まだ紀音夫らしいところはあまり感じられない。

ここに抜き出しておくのは、「『幻燈』以後、時を経るごとに無季俳句から座屈し、最後は有季定型へとリダクションする…」と、福田基の解説にある後年の句との比較のためである。

まだ句集以後の時代には踏め込めないが、時折フライングして読む後年の句は、ここに抜き出した句とは違うような気がする。何が最初からあり、何が後から付け加わったのか。もっとも、肝心のその時代を読み始めた頃にはそんなことを忘れているかもしれない。好きな富士正晴の本のタイトル、『どうなとなれ』が頭の中で鳴り響く。




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