2008-06-29

【週俳5月の俳句を読む】澤田和弥

【週俳5月の俳句を読む】
澤田和弥もしも私が二人も三人もいたら



つい先日、泥酔した。
どのくらい酔っていたかというと1次会の半ばからすでに記憶がない。
そのうえ2次会にも行ったらしい。
気がついたときには家の前で倒れていた。
よく分からなかったが、眠かったのでそのまま寝た。
その後帰宅した兄に救出された。正確に言うと
蹴り起こされた。

翌日、目が覚めた。部屋にいる。
おぼろげな記憶のピースをかき集める。
そして思ったことは
「よく生きているな」。
ただ同時に
「なんで死ねなかったんだろう」
とも。複雑な思いが痛みにかわり、
酒臭い頭をガンガンさせる。

「恥多き人生だった」などと考える私は
誰よりもナルシストである。
昔、歌謡曲にこんな歌詞があったような気がする。

こんなに馬鹿な男でも
一人ぐらいはいいじゃない

一人いれば充分である。
私が二人も三人もいたら、
それは悲劇である。
もしくは喜劇である。



枯枝に身をおおわれている産後  対馬康子

「枯枝に身をおおわれている」という状景は
石田徹也「みのむしの睡眠」を思い出す。石田は
2005年、31歳の若さで急死したあまりにも純粋すぎた
画家である。近年評価が高まり、ご存知の方も多いと
思う。石田は自分にそっくりな登場人物を描き続けた。
「みのむしの睡眠」ではベンチに寝そべりながら、
全身を枯れ枝に覆われている。それは少しばかりの
休息であり、このように眠りたい、根源的な意味で
休みたいという石田の願望である。
私には産後はどのような状態になるのか
分からない。末っ子であり、未婚の私には
産後の女性の心境や変化を思い描くことしか
できない。ただ私にはこの句は願望ではなく、
現実の幸福な休息に思われる。石田と同じ状態を
描きながら、意味するものは全く正反対である。
作者は今、幸福感にひたりながら、
目を閉じている。この場合の枯枝は
馬手が、馬のいない厩舎内で寝転がっている
藁のような幸せの感触である。
寺山修司がよくこんな引用をしていた。
「幸福とは、幸福を探すことである」。



枯れるまで同じ時間の時計草 Prince K

作品を拝見し、この句が妙に気になった。
この句を中心にいろいろと考えてみた。
私はいいかげんなので、結論というものまでには
到らなかった。
ただ私が考えていたことは全て
作者の方の計算の範囲内のような気がする。
だから私は敢えてそれを書こうとは思わない。
女性は小学校を卒業する頃にはすでに
大人の女として形成される。
男性は中学校を卒業する頃、
青年になる。
青年は大人という虚構を畏れ、
いつまでも青年でいようとする。
私のように気がついたら中年になっている男もいれば、
作者の方のようにいつまでも美しき青年の魂を
持ち続ける方もいる。
Prince Kさんは青年であった。
これが一度しかお会いしたことのない
作者の方への私の印象である。



対馬康子「銀河」 →読むPrince K(aka 北大路翼) 「KING COBRA」 10句  →読む

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