2008-06-01

「われら」の世代が見えない理由〔前編〕 相子智恵

「われら」の世代が見えない理由
マイクロポップ時代の俳句

〔前編〕


相子智恵

初出 :「澤」2007年7月 創刊7周年記念号「特集・二十代三十代の俳人」



「同世代による同時代俳句論」というのが今回私に与えられたテーマだが、私は、自分自身が俳句に関わったこの十年あまりの時間を、俳句の外側の、同時代の表現活動という横軸と、その中の俳句という縦軸とで捉えてみたいと思っている。

同世代といっても個人は多様であり、それぞれが持つ俳句観も多様であるから、私がこれから書くことは、ごくごく個人的な実感に基づいた一つの試論にすぎない。それでも無視できない私自身の時代のことだからこそ、自分の皮膚感覚で掴まえた実感をもとに、同時代の表現を率直に書くことができればと思う。

そもそも、私がこのことを書いてみようと思ったのは、今年の春、水戸芸術館で行われた「マイクロポップの時代〜夏への扉」という現代アートの展覧会を見たことがきっかけである。

この展覧会は美術評論家の松井みどりが、1995年ごろからの十年間の、日本の二十代・三十代の若い芸術家たちの活動姿勢を「ポストモダン」の最後に訪れた「マイクロポップ」であると名付け、その代表的な日本人作家十五人〜奈良美智、杉戸洋、落合多武、有馬かおる、青木陵子、タカノ綾、森千裕、國方真秀未、島袋道浩、野口里佳、半田真規、K.K.、田中功起、大木裕之、泉太郎〜の現在に迫った展覧会である。

この「マイクロポップ」という概念を提示されたとき「ああ、これは私だ。私にとっての俳句も同じだ」と衝撃を受け、それを実験的に検証してみたいと思ったのである。だから、あくまで個人的な試論にすぎないのだ。

私がここで「個人的な」という言葉を多用するのにはわけがある。本来こういう論には「われら二十代・三十代は」という主語が望まれるであろう。しかし、そう言わない、いや、言えないのがマイクロポップであり、そこが私自身の共感点でもあるのだ。



(1)「マイクロポップ」とは何か




さて、「マイクロポップ」というのは、松井みどりによると、二十代・三十代アーティストの次のような活動傾向である。かなり長くなるが、引用してみたい。

これらのアーティストは、20世紀から21世紀へと移り変わる日本の現実に反応して、独自の姿勢や創造の方法をつくり出した。彼らが成人したのは、長期の不況や、阪神淡路大震災や、オウム真理教による地下鉄サリン事件(ともに1995年発生)などの自然や社会災害に蹂躙される、90年代半ばの不確実な時代だった。そのためか、彼らは、物質的な成功や名声を追うよりも、今ここの世界で、どのように生きていくべきか、独自の立ち位置を見つけることに、強い関心を持っているようだ。
同時に、彼らによる、安い材料や忘れられた場所や、凡庸な製品や日常の情報の独創的な使用は、ポストモダン後期の世界に生きることの制限を、自由の条件へと変えていく。情報過多の時代にあって、文化的なコンセンサスを行動の規範とすることは、困難になっている。伝統的な価値観や、マルクシズムのような「大きな物語」は、既に権威を失墜しているからだ。さまざまな状況から生じる多様な問題に対して、私たちは、自分の体験から集められた情報や方法論を組み替えながら、そのつど解決策を考えていくしかない。そして、それが、ポストモダン時代の主体性のあり方かもしれない。マイクロポップは、この、状況に応じた暫定的な立ち位置の決定を支持する活動なのだ。〈中略〉小さい「ポップ」は、ただ、制度的ではない個人の立ち位置を示すものだ。それは、大都市の住人たちや、インターネットにアクセスすることのできるすべての人、そして、様々な知識を、「高等文化」や「低級文化」といった階層と関係なく組み替えて、支配的な文化のなかに、個人のユニークな「語法」をつくり出し、世界を知覚したり、そこで活動したりするための新たな術を見出すことのできる人に共通の姿勢である。それは、ポストモダン後期の不確実な条件から生まれる創造的な立ち位置であり、サバイバルのための手段である。その柔軟な適応力は、ふりかかる危険や機会に合わせて姿を変えることで生き残る動植物や鳥や魚の変身能力にも似ている。

(『マイクロポップの時代:夏への扉』PARCO出版・2007年)

松井みどりが「マイクロポップ」という概念に至ったこれら二十代・三十代作家の出品作品の一部を紹介しよう。

泉太郎は、放映中のテレビ(ニュースやバラエティ番組が流れている)に映る人々の顔に、ブラウン管の上からリアルタイムで落書きをしては消してゆくという、一見ばかばかしいパフォーマンスを延々と続けた映像作品を出品し、テレビという、用途が限定された凡庸な事物を、新たな行動や知覚の開放への手段と変えた。

島袋道浩は、神戸市の自宅近くのゴミ捨て場に二百枚ほど束で捨てられていたという他人の絵を、広島市内の路上という、まったく関係のない場所で並べ、道行く人たちと、その作者がどんな人なのか、一緒に考えて話をし、生活の中で忘れ去られたものを、人々の心の中に再生するプロジェクトを行った。絵が作品なのではなく(ましてや彼自身が描いた絵ですらないのだ)その状況(捨てられた絵によって新たな場所で引き起こされたコミュニケーション)こそが、彼の作品なのである。

落合多武は、まるで子供が鉛筆で描いた落書きのような、まったく完成を思わせない絵画を描き、子供のように様々な断片を結びつけた連想の遊びを表現した。それは、そんな組み合わせは無限にあり、作品が示すのはそのひとつにすぎないということを表している。青木陵子の絵も同様に、図鑑や布の模様など日常の事物から採られた、一見脈絡のない断片が、部分的類似や連想を通して結びつく。

国際的に人気の高い奈良美智は1959年生まれであるが、マイクロポップの走りとして採り上げられている。現代美術において具象絵画の地位が周辺的であった1990年代半ば、彼が描く絵(子供の傷付きやすさのなかの逆説的な強さの表現)は、ストレートな具象表現の魅力を伝え、その後の現代美術の流れを大きく変えた。また近ごろ青森県で彼が行った「A Z」展は多くのボランティアによって制作と運営がなされ、美術館制度の旧態依然とした発想を壊し、新しい文化的コミュニティ発生の可能性を示唆する画期的な試みであったという。

この展覧会を見れば「これはアートなのか」と疑問に思う方も多いだろう。

私にもアートが何なのかなんて、分からない。しかしまったく門外漢の私にも、彼らの作品は、思考での理解をすっとばし、生理的な実感を通じて、素直なものとして心に届いた。

これらの姿勢の中には、絶対的なイデオロギーも、完全な美もない。オリジナリティすら必ずしも必要ではなく、身近でささやかな、状況に応じた断片的な創作があるのみであり、その過程での暫定的な立ち位置を、あるとき、ある時点で、世の中に問うてみるというような姿勢なのだ。その表現は、常に変わる可能性があるということである。

それはある意味、連句や、本歌取りや、互選句会というコミュニケーションにも似て、私にはとても共感できるものであった。

私が俳句をはじめたのは、松井みどりが大きな分岐点としてあげた1995年である。

私自身、神戸の震災の三週間前に起きたマグニチュード7・6の三陸はるか沖地震に、帰省中に被災した。幸い家は無事だったものの、家具という家具は倒れ、窓にはヒビが入り、食器はすべて割れてしまった。目の前を吹っ飛んでいく、たくさんの食器は忘れがたい。神戸の震災はこんな比ではないのだと思うと胸が痛んだ。オウムの事件が起こった当時は、地下鉄で通学していたこともあり、純粋に怖かったのを憶えている。「不確実」というのを強烈に感じた一年であり、どことなく不安な気分のまま、翌年に私は二十歳になった。

また同年はウィンドウズ95が発売され、個人のインターネット利用が一気に加速した年でもある。俳句をはじめた私は、一年後にはパソコン通信(現在で言うところのBBS(電子掲示板))の句会でも俳句をはじめた。インターネットの世界で距離と時間を越えて、見知らぬ人と囲む「座」に、単純にワクワクしたのを憶えている。



(2)「ポストモダン」の最後にきた「マイクロポップ」 




さて、ポストモダンの後期にくるものがこの「マイクロポップ」だとするならば、その前期は「ポストモダン」がキャッチフレーズのように叫ばれた1980年代からである。(1985年を区切りにする場合もある。)文学を例にとると、小説では高橋源一郎、小林恭二、島田雅彦が活躍のときをむかえ、俳句でいえば、長谷川櫂、夏石番矢、岸本尚毅、小澤實らが二、三十代で出てきたころと重なる。

文学におけるポストモダンとは何であったのか。仲俣暁生はその著書『ポスト・ムラカミの日本文学』(朝日出版社・2002年)のなかで、1988年に創設された「三島由紀夫賞」の選考時の話を例に、次のように述べている。

このとき高橋源一郎を強く推したのは文芸評論家の江藤淳です。逆に高橋の受賞に反対し、松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』を推したのが作家の中上健次でした(このほかの選考委員は、大江健三郎、筒井康隆、宮本輝)。中上健次は選評でこのように書いています。小林恭二「ゼウスガーデン衰亡史」高橋源一郎「優雅で感傷的な日本野球」共に、私は三島賞にふさわしくないと考え、推さなかった。理由は共に反小説だったからである。
ここで中上健次が言っている「反小説」というのは、正確に言うと「反物語」ということです。「ポストモダン文学」とはなにより、「物語」という文学の枠組を壊そうという志をもった小説だったのです。

結果このとき、高橋源一郎の『優雅で感傷的な日本野球』が第一回の三島由紀夫賞に選ばれている。

俳句では同様にポストモダンの傾向として、平井照敏が『現代の俳句』(講談社学術文庫・1993年)の「現代俳句の行方」の中で、当時二十代・三十代の特徴的な俳人として、夏石番矢と長谷川櫂をそれぞれ「シュール派」「古志派」として挙げながら、次のように述べている。これは「澤」2006年10月号「ことばによる、ことばの俳句」で榮猿丸氏が論じたので、記憶に新しいところである。

ただ、ここでもう一つ注意しておきたいことがある。それは「シュール派」と「古志派」とを問わず、三十代前後の世代が、ことばによる、ことばの俳句を作っているように思われることである。言語空間の「シュール派」的、「古志派」的色づけの違いのように見えてしまうことである。そうしたところに、CMとコピーと構造主義の世代が特色を示しているように思われる。

この二例は、どちらも「枠組」の革新を示している。それまでは小説も俳句も、その「内容」で新しさを問うてきた。しかしポストモダンは、その内容を入れるための枠組である「構造そのものを問う」という革新に出たのである。

それが、小説は「物語」という文学の枠組を壊すことをし、俳句はそれまでの対象や内容主体の考え(たとえば客観写生や社会性俳句など)から、ひとつの詩としてそれを眼前に構成するための「ことば」を重要視し、ことばで事象を再構成してみせた。そのまったく新しい視点は、賛否両論を含みながら、無視できない新たな潮流を生んだ。

周辺を見渡せば、美術の世界では森村泰昌が、名画の中に自分が入り込むポートレートで名画の普遍性を問い、演劇の世界では野田秀樹が、古典を新たに変容させた芝居と、言葉遊びで活躍した。ポストモダンが言われたころ、総じて世間は明るく軽やかで、枠組を壊す新しさを希求した。「運動」という響きの持つ重々しさもなく、その熱量はどんどん上がっていき、いとも軽やかに文化を変容させ、あっというまに成熟させてしまった。

これに対して「マイクロポップ」は、成熟の後にきた、大きな不安の中から必然的に生まれた兆しといってよい。

そこには「枠組を壊す革新」という積極性はなく、「いま、ここでの表現を求める」という、外から見ればひどく消極的で地味に見えるけれども、本人たちにとっては意外と切実な、小さなサバイバルが内包されていた。

私たちの順番が回ってきたときにはもう、内容の革新も、枠組の革新さえもすでに終わっていた。その中から自分の選択肢を選べるほどに、もうすでに、たくさんの参考となる俳句が作られていたのだ。そして何より、私などは革新を求める方向に心が向かうことがなかった。

私が俳句に出会ったときは、先に述べたような状態で、私は、とにかく自分の身の回りのことに打ち込んでいた。私の心は、不確実な夢のようなものよりも、刹那的でも「いま、ここ」のリアルな手触りを望んでいた。

同時期の私は学生劇団をつくり、演劇をたくさん観ていたのだが、そこには「いま、ここ」でしか味わえないライブ感・生きている実感があった。演劇をしていたといっても、新しい表現や思想などとはまったく無縁の、のんびりしたものである。単純に、自分と仲間の立っている場所を体で確認し、その存在と時間を共有すればよかったのである。

当時、私が俳句に魅せられたのには二つの理由があった。一つは、十七文字にそぎ落とされた、日常的でささやかな、小さな断片世界なのにも関わらず、そこに大きな宇宙を感じる美しい詩型にあった。それは、部分から本質を掴めるような、周辺と中心が即結びつくような、不思議な魅力であった。

もう一つは「句会」のライブ感である。自分の句が他者の鑑賞を得て、想像以上のものになっていく。自分の句が、みんなの句となっていく、その場の持つコミュニケーションの力。そんな〈いま、ここの「瞬間」の生命力がありながら、なにか大きな「深遠」を掴まえようとする詩〉それが私にとっての俳句の魅力であった。1995年という年にそれに出会ったことも、あくまで結果論だが、いま思うと大きかったかもしれない。

(以下次号) ≫後篇 



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