2008-07-13

林田紀音夫全句集拾読 026 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
026




野口 裕





昭和二十五年五月、「金剛」誌上に「地上抄」として自選百句を掲載している。もちろんここにも、すでに二度三度と誌上をにぎわせた句があらためて登場する。、同じ句が何回となく登場する関係で、すでに見た句なのか始めて登場する句なのかの区別が、気ままな読者には難しくなっている。読み落としていた句をここで拾うこともあるだろう。すでに落とした、という既視感だけは気を付けねばならない。

そら豆をむくゆふぐれの樹蔭憂し

「憂し」という生硬な表現のために、第一句集から外したのだろう。日向を避けた樹蔭での作業に夕暮れが忍び寄ってきたか。複数でやっている作業なのに、口数が少なくなっている状況にでも陥ったのだろうか。「憂し」は、そんな状況を想像させる。

氷片がコップにのこり西日の卓

会話の果て。


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乳母車暮天へ深く押しゆけり
翳深き乳房の五月星殖ゆる

読書会で第一句集を題材に取りあげたときに「月光のをはるところに女の手」が話題になった。私は、「月光のをはるところ」を月光の生みだした微妙な陰翳と読みたかったのだが、そうは取らない人もいた。それは仕方ないかもしれない。

一方、上掲の二句はぼんやりとした光の階調が印象的なこと、「月光」に匹敵するところがある。句集に取られなかったのは、「深き」の押しつけがましさを嫌ったのだろう。


家鴨出し川が残りて流れけり

「出し」を「でし」と読むのか、「だし」と読むのか、よく分からない。「でし」が、文法的にあっているのかどうかもよく分からないが、作者が文法を意識していたかどうかもよく分からないので、文法的に間違っているからと解釈を棄てるわけにも行かないだろう。

「でし」と読むと、定点観測のビデオカメラの映像になる。しばらく、視界をにぎわせていた家鴨は散らばり、意識されていなかった背景の川がクローズアップされてくる。傍観者に徹した視線から時間に関するあれやこれやの考え事が生みだされる。

「だし」と読むと、しばらく身辺にまとわりついていた家鴨を放したのちに、意識していなかった川を認めた、という構図になる。意識が身体感覚から視覚へと移りながら、家鴨がいるときには思いもしなかったあれやこれやを考え始めている、となる。

どちらにしろ、「て」に感動を削ぐような段取り感覚が残るので失敗作だろうが、なんとなく惜しい。


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壁を前葱切る女うつむきて

一旦通り過ぎた句。見落としていた。「壁を前」が窮屈に聞こえるので、パスしていたが、あらためて読むと、その窮屈な感じが返って狭い室内を的確に表しているように感じる。

香水の女体鏡裡を出て近づく
鏡の内に見えていた「女体」が、私に近づいてくる。近づくに連れ、香水が匂ってくる。というようなところか。「女」ではなく、「女体」として肉感的な感覚を呼び起こす。近づかれる側に、とまどいを読みとるのは、句作の時代を意識しすぎた読みになるだろうか。


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バケツ重し帚木の根へ足よろめき
昭和二十五年作。「隅占めてうどんの箸を割損ず」に先行する。「隅占めて」ほどの心理的陰影はない。かわりに、「帚気」の語に含まれる連想力で句が支えられている。

このあたり、香水五句、帚木三句、空蝉三句、土用四句と、季語を使っての句が連続して並べられている。句集には取られていない。


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地にはマスク顔殖えゆきて戦火熄まず

昭和二十五年結核療養中の句と想像される。二年後に、「ナパーム弾も諾ひし果て馘首さる」の句があり、句集に収録されている。第一句集の頃の林田紀音夫は病気と、収入の不安定、さらに言えば恋愛の間を行ったり来たりしているが、第二句集と比較して戦争の影は比較的に薄い。取りあげられる場合は、自身の状況と比較してのことになる。

「地には」が、今となっては時代がかった表現。詰め込みすぎを嫌っての句集未収録か。


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蟹は横へ横へわれを意識せり
見ているものが、私を見ていると意識する感覚。それを裏切るように横へ横へ。



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