2008-07-06

『俳句界』2008年7月号を読む 舟倉雅史

【俳誌を読む】
『俳句界』2008年7月号を読む……舟倉雅史




魅惑の俳人たち 7  細谷源二  p62-

細谷源二? 僕にとっては今回も未知の俳人。まずは「源二句セレクション」に目を通すことにします。


機械工海ぶきっちょにたたく泳ぎ
工場体操わが影若き技師に踏まれ
老車掌鋏ぱちんと人を信ぜず
削り間違ったその夜老工葱を買う

貧しい労働者を黒っぽい色彩と荒々しい筆遣いで描いた、ゴッホの初期の作品を思い浮かべてしまいますが、どことなくユーモアも漂います。

目刺みなつらぬかれたる海知る眼
田より夕日を引き剥がすごと稲を刈る
始めうるさくだんだんかなし楡の蝉
音立ててうどん食うこの妻を見捨てず

こうした作品の魅力を的確に語り、なるほどと納得させてくれるのが高野ムツオ氏の「言葉のバイタリティ」。

五七五という俳句のリズムに添いながらも、口語のリズムをも体現している。いや、むしろ俳句定型のリズムは、口語のリズムを強化補足する形で駆使されているというべきだろう。作者の息づかいが、そのまま聞こえてきそうなリズム感が源二の俳句の魅力の根底にある。

源二の俳句のもう一つの魅力は、生き身の人間が、本質的に内在させている自己矛盾を、その矛盾のまま、さらけだすことで生ずる、おかしみと悲しみにある。(中略)自分を否定することで、生きながらえる。これは自己矛盾そのものといってもいい。その自己矛盾の中にあがくことが、源二の生き方そのものだったのだ。作品に底流するおかしみは、その「生きる」ことの苦渋が生んだおかしみなのである。これを源二俳句の諧謔と呼んでもよい。

文学作品の「おかしみ」は、多くの場合、自己または他者への冷徹なまなざしから生み出されるものですが、自己をさらけだすことによっても「おかしみ」が生まれることを源二の俳句は教えてくれます。この種の魅力を湛えた句に出会ったことは、今まであまりなかったように思います。源二の句が「俳句史の一隅から、今という時代に照射し続けている」というのは、確かにその通りなのでしょう。こうした作品によって、自分の俳句観に揺さぶりをかけてみるということは、ぜひとも必要なことなのかもしれません。


俳句界速評 六月号作品欄より  p182-

「ころころと音の乾ける芋の露」(伊藤久美子)は、雑詠欄で評価が分かれた句として先月ここで取り上げましたが、久保純夫氏がこれを次のように評しています。

古来、露というものは、日本文化の一方の情緒を代表する存在であろう。「あはれ」なるものと結び付けば、常にそれなりの湿った状況が生まれてくる。つまり、ものの本意・本情に幾分かを傾ければいいわけだ。その典型に、作者は乾いた抒情を見出した。芋の葉の上を自在に転がる水玉。これは「をかし」であろう。そして確かに、現代がある。

この句の場合に限らず、久保氏の作品鑑賞は、言葉の「本意・本情」を確認する、すなわち、作品を日本文学の千年を超える時間軸の中に据えてみる、という所から始まるようです。たとえば、「千年を抱いてわたくし桃の花」(星野泉)は次のごとく。

「桃」は古くから邪気を祓う霊力があるとされてきた。禁中の追儺では、桃の弓、葦の箭、桃の杖を以って疫鬼を追い払う。当然、花にもその力は存在しよう。千年という時間は刹那ではない。永遠とも少し違う。『源氏物語』が起筆されてからの千年と考えれば、いくらかは具体化できよう。つまり、花は刹那であり、千年を生きている木は現況でもある。祓うべきあらゆる邪気を自らの内に、留めてこそ、〈桃の花〉は妖艶であり清浄なのだろう。

一方で、もう一人の担当者、渡部州麻子氏は、そこからドラマが始まる契機として俳句を捉えようと試み、またそれが可能な句を意図的に取り上げているように見えます。たとえば「桃咲いて厨はいつも怖いとこ」(星野泉)は、

戸外では桃の花がひたすら明るく咲いているのに、鬱屈を抱えて黙々と葱など刻む。誰かへの憎しみか不満か憤りか。手元には刃物が鈍く光っている。……

という具合。ここでは「桃」の「本意・本情」への言及はないかわりに、この先起こるかもしれないドラマへと想像が広がっていきます。「最新のシステムキッチンを備えた今どきの台所」でも「ある瞬間、ふっと恐ろしい場所に変わり得るのだ、いつだって。というふうに。

両氏の、作品へのアプローチの仕方の微妙な違いを意識しながら、興味深く読みました。




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